梶大介 「生ききらなければ真実はみえてこない わがどん底歎異抄」

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄

生ききらなければ真実はみえてこない―わがどん底歎異抄


すごい本だった。

これほど、歎異抄を身読・身証した人はいないのではなかろうか。

私は今まで何を読んできたのだろう、
歎異抄を読めども読まず、なんにも読んでこなかったと、この本を読んで思い知らされた。

念仏に心を寄せる人であれば、必ず読むべき本だと思う。

著者は、山谷のドヤ街で、日雇い労働や屑拾いをしながら、山谷の人々の自立のために「いし・かわら・つぶて舎」をつくり、搾取のない仕組みのために努め、自立のための共同農場をつくった方。

梶さんの人生は、まさに「どん底」、苦難の連続だった。
そして、罪業深重の人生だった。
だが、本当に「不思議」な人との出遇いによって、歎異抄を読み、念仏を申す身となった。

その出遇いの不思議さや、梶さん自身の人生や言葉のすばらしさは、ぜひこの本を読んで多くの方に知ってもらいたい。

本当に深い深い読みを歎異抄にしておられて、何度もうならされた。

きっと、鎌倉時代の、親鸞聖人の念仏や歎異抄というのは、梶大介さんのような念仏や歎異抄だったのだと思う。
今、これほどの念仏や歎異抄を身証した人が、いったい寺院にどれだけいるのだろう。

梶さんの本を読んでいて、昨今格差社会に日本はなったとしきりに言われるけれど、それはもともとの話で、山谷や釜ヶ崎ではずっとひどい格差が厳然として存在しており、一部に押し付けられていたものが、他の地域や人々にもわが身のこととしてふりかかるようになっただけの話なのだと思った。
一億総中流というのは、もともと、山谷の存在などを無視した、神話や虚妄に過ぎないことだったのだろうと思う。

どん底」においても、どこにおいても、念仏があり、不思議がある。
そのことに、この本を読んでいると、本当に感動させられる。

きっと、人は、どのような境遇でも念仏さえあれば生きていけるし、生きねばならないのだと思う。

「生ききらないと真実は見えてこない」

本当に、貴重なメッセージに満ちた、すばらしい本だった。




「いつの時代の何処であろうと、生かされた場を生ききっていかない限り、なんにも観えては来ない。
生き切ったところでしか真実は見えて来ないのである。」
(244頁)

「弥陀の本願は即解放されたいとする大衆の悲願であり、
一つのものであって別のものではない。
 弥陀は遠くに掲げて拝むものではない。
念仏とは大衆をその宿業の一切から解放して行こうとする行である。」
(200頁)


「真理とは簡単なのである。その真理を説く釈尊の説法は難しくないのである。真理を遠いものとし、釈尊の説法を難しいとするのは、人間が人間でなくなったからである。人間が真理に立とうとしなくなったからである。
即ち、
「生かされている」
という不思議の事実を否定しきっているからである。
「生かされている」
という不思議の事実を素直に受け取ったところに安心があり、念仏が発し、無碍の一道がある。
必要なものは必要なだけちゃん

映画 「マスター & コマンダー」


ナポレオン戦争の頃のイギリスの軍艦が舞台で、主人公達は大西洋の大海原を航行し、なかなか捕捉できないフランスの軍艦を追い、途中ガラパゴス島に上陸したり、大嵐にあったり、最後はフランスの軍艦と大激戦をする、という話。

一言でいえば、男のロマン、というところだろうか。

なかなかよくできていて、たぶん日本の歴史にはあまりない、帆船による遠洋航海や戦闘というのは、ある意味うらやましいような、男のロマンの世界だなぁと思った。

良いことばかりではなくて、大変なことばかりで、これはたまらんなぁと思うような試練や苦難が続出だし、乗組員の中にもいいことばかりでなくてかなり難しい人間関係もあったのだろうと思わせることもあるのだけれど、にしても、この一蓮托生の世界というのは、ある意味うらやましくあった。

でも、それは、生き残れば、の話なのだろう。
途中、多くの乗組員が命を落とすし、幸いこのイギリス船は勝ち残って生きのびたけれど、それこそ山のようないろんな船と男たちが、この時代、戦闘や遭難で海の藻屑となっていったのだろう。

本当は、戦闘ではなく、科学の探究ということでガラパゴス島などを旅することができたら、よっぽどその方が良く、戦闘など大きな自然から見れば、土台馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。

しかし、この時代の海軍の勇気や度胸というのは、たとえ帆船の時代が終り、こうした時代が過ぎ去っても、何かしら立派なような、大事なものだったような気もする。

なかなか面白い作品だった。

佐々木毅 「よみがえる古代思想」

よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義(1) (連続講義 哲学と政治)

よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義(1) (連続講義 哲学と政治)

とてもわかりやすく、ギリシャ・ローマの古代政治思想の概略がまとめてあって、面白かった。
はじめて読む人にもきっとわかりやすいと思うし、ある程度知識がある人が読んでも、概略を整理し、あらためて大きなストーリーを見るのに良い本なのではないかと思う。

なぜギリシャ・ローマの古代思想を学ぶ必要があるのか、という問いを冒頭で提起した上で、筆者は、その時代が一番純粋に政治と生きる意味の関係について率直に問題関心が持たれ議論された時代だったから、と述べる。

そして、「法」(ノモス)への自発的な服従によって形成されていた古代ギリシャのポリスが、特定の人物への服従によってつくられていたペルシア帝国と対比され、西洋の「自由」の意識や伝統となったこと。

さらに、ポリスにおける活動こそが、人生の意味だと古代ギリシャでは受けとめられていたこと。
そうしたギリシャの伝統に対し、ソクラテスが「魂への配慮」を提起し、その弟子達によりさまざまな応答やバリエーションが生じたこと。

マケドニアの勃興やローマ帝国の成立により、広域国家ができたことにより、小さなポリスを前提としたギリシャの政治思想が破産し、法律・自然法を重視するストア主義のローマ思想が生じ、政治は生きる意味を与える活動ではなくやむをえざる必要悪ととらえられ、自由よりも平和が重要な価値を帯びるようになったこと。

といった、ギリシャからローマにかけて思想史のおおまかな筋が、とてもわかりやすく面白く描かれていた。

もちろん、細部では異論も成り立ちうるかもしれないが、面白いストーリーだったと思う。

さらに、末尾の部分で、こうした古代思想への応答として西洋が渾身の英知を傾けてさまざなま問題を議論した18世紀の政治思想が、19世紀の思想の摂取からはじまった日本においてはほとんど摂取されてこなかったことを指摘し、また利益政治や「命あっての物だね」に終始する戦後の政治への清涼剤やオールタナティブとして古代思想がこれからも意義あることを指摘しているのは、あらためてなるほどと思った。
古代思想、および18世紀思想というのは、これからの二十一世紀の日本においても、政治や社会のあり方を考える上で、最も参照すべき、しかもいまだに十分学べていない領域なのかもしれない。

ギリシャ・ローマの政治哲学について、おおまかなデッサンを頭に描くには、良い一冊なのではないかと思えた。

秋山清 「目の記憶」

秋山清著作集 (第9巻)

秋山清著作集 (第9巻)

秋山清の自叙伝「目の記憶」が収録されている。

自叙伝、といっても、19歳の時までの回想で終わっている。
けっこう長生きしている人物なので、かなり人生の早い時期までで筆が止まっているのだけれど、とても詳細に少年時代を描いていて、かなり面白かった。

北九州市門司区の今津というところの、大正時代の漁村の様子がとても詳細に描かれていて、その自然の様子や村の模様など、なかなか面白かった。
また、エレベーターボーイとして東京で働くようになっていた19歳の時に関東大震災に遭遇した時の体験のことも詳細に描かれていて、とても面白かった。

あの時代のひとつの精神史、および人生や当時の世相や生活の記録して、貴重なものではないかと思った。

面白い一冊だった。

触発されて、私もふと、自叙伝を書くほどの年ではないけれど、なんとなく自分の体験や考えたことの整理として何か書いてみたいような気持ちにさせられた。

私なりの「目の記憶」を、いつか書いてみよう。

「読書地図帳 ヘロドトス」

読書地図帳 ヘロドトス「歴史」

読書地図帳 ヘロドトス「歴史」


これはすごい!

ヘロドトスの歴史を読んでいると、いろんな民族や地名が出てきて、なかなか具体的にどこに住んでいるのか、本を読んだだけではわからない。

しかし、この読者地図帳には、さまざまな古代の民族分布と地名がわかりやすく色分けして描かれており、これを見れば一発わかりやすく飲み込める。

ヘロドトスファンには、たまらない、すばらしい労作と思う。

CDRにデータが保存されている形式なので、自宅のパソコンで気軽に見れて、一般の地図帳みたいにかさばらないところもありがたいところである。

ヘロドトスファンにはとても便利な一冊である。

スマナサーラ長老 「慈悲と智慧の開発レッスン」


人生はモノの流れの交差点。
正しく自分の人生を会計するために、原因と結果の法則という仏教の智慧に立脚すること。

幸福になるためには、まず自分の方から与えることを心がけて生きてみることが大切であること。

自ら「人生の会計士」になること。

正しい「人生の損得勘定」の智慧について教えてくれる一冊です。

折々読み返すと、人生の優先順位や差引勘定について、迷いの霧が晴れ、明晰な智慧を持つことができます。

わかりやすく短いけれど、すごい一冊です。

スマナサーラ長老 「ブッダの教え 一日一話」

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)


一年366日のそれぞれの日ごとに項目が分かれていて、スマナサーラ長老の短い言葉が載っている本です。

その日ごとに読んだり、あるいはまとめて読んだり、読むたびに何か大事な智慧をもらえる本です。

シンプルで具体的でわかりやすいテーラワーダ仏教智慧
その智慧とともに、毎日や一年を生きていくことがこの本を読めばできます。

枕元に置いておくと良い本だと思います。

原始仏典

原始仏典〈第1巻〉長部経典1

原始仏典〈第1巻〉長部経典1


初期仏典のうち、長部経典と中部経典がこの春秋社版の原始仏典全七巻には収録されています。
(ただし、相応部・小部・増支部などは含まれていないため、これほどの量でも全初期仏典のうちの36%だそうです。)

なかなか全七巻読み終えるのには骨が折れましたが、読んで本当に良かったと読み終えてから思いました。
釈尊の直説に触れる思いがしました。
本当に、人類の宝、珠玉の古典だと思います。

人生のさまざまな問題について、具体的で、シンプルで、合理的で、明晰な叡智が湛えられており、読めば生涯の宝になること間違いなしと思います。

もちろん、繰り返し読んで、人生の折々に立ち返るべき本なのだと思います。

平明な日本語にこのパーリ仏典を翻訳してくださった研究者の方々の労苦には、本当に感謝してもし足りないと思います。

人類最高の古典、ぜひ多くの、特にいま悩みや迷いを抱えている人には、まずはこの初期仏典・パーリ仏典を紐解いて欲しいように思います。

スマナサーラ長老 「運命がどんどん好転する」

私がはじめてスマナサーラ長老の本に触れたのは、この本が最初でした。

いろんな仏教書や人生・哲学などの本を自分なりに読みあさり、それでもいまいち隔靴掻痒、よくわからんなぁと思いながらいろんな本を読んでいた時に、たまたまこの本にめぐりあい、「世の中にはこんな本があったのか〜」ととても感嘆した記憶があります。

とても明晰でわかりやすい解説で、慈悲の瞑想・ヴィッパサナー瞑想を説き明かしてくれている、目からウロコの本です。

スマナサーラ長老 「心がスーッとなるブッダの言葉」

心がスーッとなるブッダの言葉 (成美文庫)

心がスーッとなるブッダの言葉 (成美文庫)

とても平明な言葉で、人生のいろんな事柄への心がけについて、わかりやすく書かれており、私にとって人生座右の書となりました。

読むたびに、本当に心が「スーッと」なります。

無常、無我、苦など、ただ単語だけにするとちょっと難しく思える言葉が、こんなにも明晰でわかりやすく、人生をスーッとさせてくれるのかと、瞠目させてくれる好著です。

サウンダラナンダ

サウンダラナンダ

サウンダラナンダ

サウンダラナンダは、一世紀か二世紀頃、馬鳴が書いたとされるサンスクリットの一大叙事詩で、ナンダが主人公である。

ナンダ(難陀)は、阿弥陀経にも出てくるけれど、釈尊の弟(異母弟)で、大変美男子だったらしい。
ナンダの妻のスンダリーも絶世の美女だったらしい。

二人とも、愛し合って暮らしていたが…。

なかなか出家しようとせず、出家しても妻に心引かれて還俗しようとするナンダに対し、アナンダ、そして釈尊が説法し、ついにナンダの煩悩を粉砕して、寂静を求める心を起こし、ナンダは信心を得て寂静のために猛然と精進し悟りに達し、仏への報恩の思いに生きるようになる。

その物語が、とても美しい言葉で描かれていて(と言っても私は日本語訳でしか読めないのでその一端しかわからないのだけれど)、面白かった。

うーん、たしかに、愛欲を求めるより、寂静を求めるために精進するのがいいんだろうか。

「この世に幸福は、精進によってのみ達成される」

というメッセージや、

「雑草はほっておいても生えてくるが、米穀は努力によってのみ得られる。
そのように、苦はほっておいてもたくさんやってくるが、楽(スカ)は精進努力によってのみ得られる。」

というメッセージは、なるほどなぁと思った。

私もナンダのように煩悩ばかりの身だが、この本を読んで少し心の向きが変わったような気もする。
ちっとは寂静を求めて生きていこう。

うーん、なかなか愛欲や恋情は経ち難いが、本当は出家した方がいいのかなぁ。。
私にはちょっとまだ心の整理がつかないし、今生では無理かもしれないが。

にしても、このサウンダラナンダ、大乗仏教の作品ということになるのかもしれないが、内容は原始仏典やテーラワーダの修行法を正統に踏んだものが説かれていて、きちんと仏教の嫡子のすばらしい内容と思った。

また、いつか読み返してみよう。

大谷光真 「愚の力」

愚の力 (文春新書)

愚の力 (文春新書)


著者は西本願寺の御門主

平明な言葉で、わかりやすく、奥深い内容が丁寧に語られていて、とてもためになった。

印象的だったのは、「切なる生き方」という言葉だった。

無常や死の問題、有限性の問題、あるいは悪人や愚ということを、他人事のように思っていては、とても「切なる生き方」は出てこない。

それらのことが、自分自身の問題として引き受けた時に、「切なる生き方」が出てくる、ということだった。

たしかに、浄土真宗とは、念仏とは、この「切なる生き方」の道なのだと思う。

また、煩悩とは有限性に関わる問題であること、
我々は普段、自分が有限な存在であるとも、煩悩を持った存在だとも気づかないけれど、そのことを気づかせてくれるのが仏教であり、阿弥陀如来の本願念仏の道だと述べられているのは、なるほどーっと思った。

無自覚の愚者ではなく、愚であると自覚を持ち、切なる生き方を生き抜くのが念仏者の道なのだろう。
大事なことを、あらためて教えられた気がする。

巻末に収録されている、ダライラマとの対話も、去年の一月に文芸春秋に掲載された時も読んだけれど、あらためて読んで感銘を受けた。

一切衆生へと開かれた念仏の道というのは、本当にありがたいものだと改めて感じさせられた。

良い本だった。

まだ一回しか読んでないので、また繰り返し読み返してみたい。


(二回目の読後感想)

二回目読み終わった。

 一回目の時よりも、さらにしみじみ味わいが深かったと思う。
 なるほどな〜っと考えさせられた。

たぶん、御門主は、「時代の力」に対抗する力としての「愚の力」を提示しておられるのだと思う。
たしかに、「愚の力」こそが、「時代の力」に抵抗できる力かもしれない。
また「愚の力」で「時代の力」に抵抗・対抗して、別の人間や社会のあり方を提示していくのが、念仏者の務めというものなのかもしれない。

本願念仏を通して養われる有限性の自覚・愚の自覚。
また、そうした愚である自分をそのまま支えてくれる、如来の慈悲の心を思い起こすこと。
そうして、如来の慈悲の心に支えられた人こそ、一切衆生とのつながりを積極的に求め築いていくことができること。
有限性・愚・不完全さを自覚しながら、今自分にできることを積極的に行っていくのが、浄土の慈悲であること。

そういったことを、御門主は「愚の力」と言っているのだと思う。

この「愚の力」がないことには、生死への実感もなかなか見つからない、消費者マインドと人工文明ばかりの今の社会では、なかなか一切衆生とのつながりを築くことも持つこともできず、したがって生きる手応えもなかなか見つからず、今できることから何かをやっていくという力も生じにくい、あるいは生じえないのかもしれない。

ぱっと見、わかりにくいタイトルだけれど、如来の大悲を通して有限性の自覚・愚の自覚を得た個人が、進んで一切衆生とのつながりを取り戻す力のことを「愚の力」として、「時代の力」に対抗するものとして提示していることに、二回読んではじめてはっきり思い至った。
門主の並々ならぬ願いをこめた一冊なのだろう。

限りある存在であること、愚であることを自覚することと、その自覚から生じてくる歓喜と慚愧の生きる力。
それが「愚の力」「愚力(ぐぢから)」だとすれば、私は今年はこれから大いに愚力を鍛えたいと思う。
浄土門というのは、まさに愚力の宗教だとすれば、これからますます、時代の力に押しひしがれた人に必要になってくるかもしれない。
また、すべての事柄に関しても、愚力を持っていることが根底に必要になってくるかもしれない。

有限性の自覚もなく、愚の自覚もなく、一切衆生という考えもなく、あまりにも自己中心・人間中心で、それも消費者としての心理や価値観ばかりが世にはびこるとすれば、あまりにも社会も索漠としたものになってしまうだろう。

愚の力・愚力というのは、ひょっとしたら今の社会にとってとても有効かつ必要なワクチンや免疫力みたいなものなのかもしれない。

スマナサーラ長老・南直哉 「出家の覚悟」

出家の覚悟―日本を救う仏教からのアプローチ

出家の覚悟―日本を救う仏教からのアプローチ


・ 慈しみは、あるものではなく、日々に努力すること。
・ 共生とは、矛盾や摩擦に耐えること。
・ 共にいるということは痛みでもあり、それが生きることの強度・手応えにもなる。
・ 縁起とは、自分が自分ではないものから触発されること。
・ 人は皆、生きる苦しみを味わい、失敗ばかりしている。そこで自分だけと思うか、みんなそうだし人生とはそんなものだと知っているかで、人は大きな違いが出てくる。
・ 自分が何をすれば人の役に立つかを考えるかが一番大事で、自分探しなどはつまらないことだ。
・ 信とは、共感すること。
・ 人間の認識全体に欠陥があることが無明ということ。
・ 祖師教ではなく、仏教に、釈尊の教えを基本とすることが今後日本仏教にも大事。
・ 誰かがホームになると、その人は落ち着く。大事なのは、ホームがあるかどうかということ。
・ 自分の面倒は自分でみれる人間になること。
・ 時間は待ってくれない。結局は今やるべきことに賭けるしかない。
・ 多様性を認めるのが幸福。
・ 違いが楽しいと思えばいい。差を喜ぶこと。

などなどの内容が書かれていて、なるほどーっと思った。
スマナサーラ長老の圧倒的なすごさを改めて感じた。
まさに現代の鑑真和上だろう。
対談していた南さんという方も、よいことをおっしゃっていた。

スマナサーラ長老は、この南さんや玄侑宗久さんなど、禅宗のお坊さんとは何人か対談しているようである。
それも面白いけれど、私としては、一度浄土真宗の僧侶の方と、スマナサーラ長老の対談が実現して欲しい気がする。
たとえば大峯顕先生や梯実円和上のような学徳兼備の浄土真宗の僧侶と、スマナサーラ長老が対談してくださったら、すっごい面白い内容になるのではなかろうか。
そのうち実現しないだろうか。

私も、もっと真剣にどうすれば自分が人や世の中の役に立てるか考えて努力し、日々に慈しみの心を育むように努力し、きちんとしたホームを築けるように今のうちから準備して努力しようと思った。
良い本だった。

青木新門 「納棺夫日記」

定本納棺夫日記

定本納棺夫日記


死をきちんと見つめた時に、世界が透明に光って見える。

釈尊親鸞聖人が見たもの、
悟りや浄土というものは、
そういうことではなかったか。

この本を読んでいて、そのことをとてもわかりやすく説き明かされた気がしました。

なかなか、これほどに透徹したまなざしを生死に向けることは凡夫には難しいですが、しかし、本当は、最も大事な、そして本当は簡単なことなのかもしれません。

一度は読むべき、すばらしい名著と思います。

映画「おくりびと」の原作らしいですが、映画では語られなかった、深い深い思索と浄土真宗のエッセンスが湛えられている良い本と思います。

死を直視すれば、この世の問題や憂いの大半は、ひょっとしたら解決するのかもしれません。

スマナサーラ長老 「アビダンマ講義五巻 業と輪廻の分析」

アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析―ブッダの実践心理学

アビダンマ講義シリーズ〈第5巻〉業(カルマ)と輪廻の分析―ブッダの実践心理学


とても面白かった。

業と輪廻の仕組みについて、とてもわかりやすく書かれていて、なるほどーっと思った。

今の人生も、次の人生も、それからずっと先も、結局決定するのは、自分自身の行為なのだろう。

なかなか凡夫は、この輪廻の仕組みを直視せず、輪廻から抜け出たいとすらもめったに思わないわけだけれど、この本の中に書かれる十福善業や瞑想になるべく励んで、妨害業を防ぎ、支持業をうまく利用しながら生きていきたいと思った。

いかに生きるか、いかにいきるべきかのバックボーンになる大切な知識と思う。

岩橋文吉 「人はなぜ勉強するのか」

人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰

人はなぜ勉強するのか―千秋の人 吉田松陰


本当に良い本でした。

吉田松陰のすごさ、すばらしさに、あらためて瞠目された気がします。
というより、この本を読むまで、吉田松陰の本当のすばらしさを、私はちっともわかってなかったと思いました。

ふと手にとった本だったのですが、本当にこの本にめぐりあえてよかったと思います。

人はなぜ勉強するのか?


天が自分に与えた持ち味を見つけ、発揮し、千秋(千年の意味)に光を放つ人となるためではないか。


「万巻の書を読むに非ざるよりは
寧(いずく)んぞ千秋の人と為るを得ん
一己の労を軽んずるに非ざるよりは
寧んぞ兆民の安きを致すを得ん」

(一万巻に及ぶたくさんの書物を読まないでは、どうして千年の歴史に名を残す人となることができようか。
自分一人の労苦を進んで負うのでなくして、どうして天下の人々を安らかにすることができようか。)

現代人に欠けがちな、本当の志、高く高く生きることを、教えられる名著です。

とてもわかりやすく書かれているので、誰が読んでもすぐに読め、きっと得るところの多い本と思います^^
多くの方に読んで欲しい一冊です!

ヒューム 「宗教の自然史」

宗教の自然史〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

宗教の自然史〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

多神教一神教について、ヒュームが論究した書。

なかなか毒舌に、多神教一神教もユーモラスに分析してあって、ところどころかなり笑えます。

18世紀の本ですが、いまもって迷信に迷っている人が多い21世紀の日本を考えれば、とても新鮮で読み継がれるべき本のように思います。

泉谷周三郎 「ヒューム」

ヒューム (イギリス思想叢書)

ヒューム (イギリス思想叢書)


ヒュームの生涯や思想がわかりやすく解説されてあって、入門書として良い本と思います。

ここから、いろいろ広がっていくかもしれません。

ヒュームは、18世紀の哲学者ですが、本当に広く深い、面白い思想家だと思います。

平川祐弘 「米国大統領への手紙」

米国大統領への手紙

米国大統領への手紙



硫黄島の戦いにおいて、最後に死を目前にして、アメリカのルーズヴェルト大統領に手紙を書き綴った海軍少将・市丸利之助の評伝。

市丸少将は、人格者で、部下をかわいがり、家族を愛し、短歌をよく詠んだ、当時の軍人にはめずらしいタイプだったらしい。

その市丸少将が書いた手紙は、単純な戦後の史観からは読み解けない、さまざまな意味とメッセージのこもったものだと、この本を読んでいて思った。

著者の、

「日の単位で測るなら、ハワイを奇襲攻撃した日本に非がある。
 月の単位で計るなら、ハル・ノートは明らかに不当な挑発である。
 だが年の単位で測るなら、軍国日本の行動がすべて正しかったとはよもや言えまい。
 しかし世紀の単位で測るなら、白人優位の世界秩序に対する日本を指導者とする「反帝国主義帝国主義」の戦争ははたして一方的に断罪されるべきものなのか。」
(124頁)

という言葉は、あの戦争について、蓋し名言と思う。

あの戦争を美化もせず、かといってステレオタイプに断罪しないためには、まずきちんと先人の言葉と事蹟に謙虚に耳を傾け、先人の思いを汲み取ることなのだと思う。

そうすれば、きっと、自国の先人に感謝しその名誉を尊びつつ、平和の大切も知り、平和を願う気持ちが育まれるのではないか。
ステレオタイプな断罪や、過度の美化は、そうした適切な名誉と平和への感情をどちらも阻害すると思う。

著者の、

「しかしその平和を尊ぶ気持と名誉を重んずる気持は両立するものと信ずる。」
(142頁)

というメッセージには全く同感させられた。

心ある日本人は、市丸少将や栗林中将の生き様には、今なお深く学ぶべきと思う。
そうすればきっと、本当の名誉も、平和を願う気持ちも、涵養されると思う。

良い一冊だった。

ダライラマ 「心の平和」

心の平和

心の平和


2008年に福岡で行われたダライラマの講演の記録です。

わかりやすいことばで、仏教のエッセンスが説かれている、良い本でした。

人間には、肉体的な苦楽と、精神的な苦楽と、二つあるけれど、後者の方がより重要であること。

熱望は大事であるが、欲望は無知に基づいているために幸福な結果を生じないものであること。

世界の諸問題は、人々の心がかき乱されているから起こる。

世界の平和は、各人の心が鎮まり、平和であることから始まること。

心を鎮め、自分の心や世界を平和にするのは、祈りではなくて、智慧と慈悲を学び、実践すること。

利他の心を育み、智慧を磨くこと。

などなどが、わかりやすく、丁寧に説かれてあり、一見平明のようで、とても奥深い話でした。

また、これからの日本は、世界に貢献する際に、言語の障壁が問題であること、英語など外国語をもっと熱心に学習すべきことなども説かれている点は興味深かったです。

司馬遼太郎 「歴史の中の邂逅」

司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅〈1〉空海‐豊臣秀吉

司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅〈1〉空海‐豊臣秀吉


この本の中には、所郁太郎について書かれた「無名の人」が収録されています。

「無名の人」は、司馬遼太郎のエッセイの中でも、最も胸を打たれるものだと思います。

歴史に埋もれていた、無名の人だった所郁太郎。

その名前を、いろんな文献から見つけて、その名に「霊気」を感じ、興味を持って徐々にいろんな事蹟をつなぎあわせて、その生涯に思いを至らせていく、
なんとも胸打たれる一文です。

しばしば、英雄中心史観のことを「司馬史観」と呼んだり、揶揄する人々ががおりますが、司馬さんにはそれだけでない、こんなに細やかな「草莽」へのまなざしがあったことを知る、大事なエッセイだと思います。

この本には、長井雅楽など、その他の幕末史ではあんまり語れることない人々も綴られています。

良い一冊です^^

梯実円 「花と詩と念仏」

花と詩と念仏

花と詩と念仏


梯実円和上のことばには、本当に深く考えさせられる。



「生にとらわれて死を拒絶することも、死にあこがれて生を拒絶することも、ともに正しく人生を見ていない。
生死を越えるとは、生と死を真反対のこととして把える思考の枠を破って生と死を等分に見ていけるような視点を確立し、生きることも尊いことだが、死もまた尊い意味を持っているといえるような精神の領域を開いていくことだ。
そのような人にとって、若き時も、老いてからも、健康も病いも、愛するものにも、憎まねばならないような相手に対しても、等分に、尊い意味を確認して合掌しつつすべてを受けこむことができる。」云々。

等分に見ていける視点。
私は程遠いところにいるけれど、いつかそういう視点を持てたらなあと思う。
仏教の真髄とは、そこにあるのだろう。

等分にものごとを見るというのは、きっと三次元の世界にだけ足場を置いていても無理な話で、五次元や浄土に軸を置いて、はじめて開けてくる視野なのかもしれない。

なんでも分別してしか考えられない三次元の世界の外に出た視点を持つことができたときに、人はどんなことにも意味を見出す、等分の視点が持てるのではないかと思う。

そうした、生死解脱・怨親平等の等分のものの見方を見につけていくことが、念仏成仏ということであり、この娑婆での人生は、そのための日々のお育てであり道場ということなのかもしれない。

なかなか、そうしたものの見方が身につかず、いろんな迷いの中を生きているとしても、本当は等分のものの見方を身につけるような方向にこの生が向かっているんだという、そのことは忘れずに、この人生を送っていきたいなと改めて思った。

映画 「炎の戦線 エルアラメイン」

炎の戦線エル・アラメイン [DVD]

炎の戦線エル・アラメイン [DVD]


第二次大戦中、ドイツ・イタリアとイギリスの戦車部隊がエジプトの砂漠で激しく戦った、そんな歴史がこの作品の時代背景。

といっても、華々しい戦争からは程遠く、満足に水や食料や援軍もない状況下で、イタリア軍の前線の兵士が、砂漠の暑さにひたすら苦しみ、よくわけがわからないまま退却して、逃げ惑って苦しむという話。

イタリア軍は、よく話には聞くけれど、そもそも戦車やトラック自体がほとんどなかったみたいで、物量や装備の点で著しくイギリスに劣っていたらしい。

何しに戦場に行って、何のために戦っているのかもわからない。
そんな主人公たちの様子には、見ていて、ため息や嘆きを通り越して、あまりにも馬鹿馬鹿しくやるせない気持ちさえこみあげてくる。

戦争とは、決して輝かしいものでも華々しいものでもなく、みじめで愚かしいことなのだろう。
そのことを、淡々とよく描いた作品だったと思う。

戦争の、そういう側面を描くには、第二次大戦中のドイツや日本はある意味がんばりすぎてそれなりに奮闘して強いだけに、イタリア軍が一番身をもって示していて、うってつけなのかもしれない。

にしても、戦場では、トラックやバイクが一台あるだけで、どれだけ助かるかわからないんだなあと、映画を見ていて思った。
また、水や食料があるということが、そして自由な日常があるということが、平和があるということが、どれだけありがたいことか。

それにしても、映画を見ていて印象深かったのは、同盟国であるはずのドイツ軍が、自分たちだけジープに乗って退却し、載せていってくれと頼む主人公たちに、「このイタリア野郎、くたばれ」と捨て台詞だけのこしていく姿。
まだかろうじて前線が拮抗していた状況でも、ドイツ軍からまわってくる水が、とても飲めたものではない油のような水ばかりだったことが、映画では描かれている。
ドイツからすれば、まったく役に立たず、しかもやがてさっさと降伏してしまうイタリアには、ずいぶん腹が立っていたのかもしれないけれど、いちおう同盟国だったはず。
極限の戦場での同盟国なんて、そんなものなんだろうなあ。
万が一、日本が将来アメリカの片棒を担いで、どこかの戦場に出て行っても、負け戦なら容易にイタリアのような目に遭いそうだと思った。

里中満智子 「長屋王残照記」

長屋王残照記 (1) (中公文庫―コミック版 (Cさ1-16))

長屋王残照記 (1) (中公文庫―コミック版 (Cさ1-16))

漫画だけど、よくできていた。

ラストは、思わず涙が出そうになるぐらい、胸を打たれた。
長屋王も、さぞ無念だったろう。

無実の罪で、家族ともども死ななければならない長屋王の無念さは、いかばかりだったろう。
歴史には、長屋王のほかにも、数多くの気高い魂を持ちながら、無念の死をとげた人物がいっぱいいたのかもしれない。

鑑真和上が日本に来ることを決意した理由は二つあったそうだ。
ひとつは中国の高僧・慧思が日本の聖徳太子に転生したという伝承が中国でも広まっていたらしく、その伝説にとても興味があったらしいこと。
もうひとつは、長屋王がかつてたくさんの刺繍を中国に送り、高僧に日本に来て欲しいというメッセージが見事に織り込まれていたそうで、それに胸を打たれたことがあったかららしい。

だとすれば、鑑真が来日してくれた大きなきっかけに、長屋王はなっていたわけで、鑑真和上がいなければのちの日本仏教がありえなかったことを考えれば、長屋王も日本仏教の大きな大きな恩人のひとりだったと言えるのかもしれない。

人生はままならないことも多いし、時にとても不条理な目に遭うこともあるけれど、たった一つでも、後世に大きな光を投げかけることのきっかけになれば、その人の人生には大きな意味があったことになるのかもしれない。

印象深いのは、長屋王を無実の罪で死に追いやった藤原四兄弟が、その後ほぼ同時期に四人とも疫病で死んでいることだ。
長屋王のたたりだったのだろうか。
それとも、後ろめたい気持ちが、彼らの免疫力をおのずと弱めてしまっていたのだろうか。
藤原家って、けっこう汚い策謀を張り巡らすわりには、長屋王の時も、菅原道真の時も、意外と神経が細い気がして、そこが人間らしいというか、案外憎めない気がする。
四兄弟の妹の光明皇后など、とても仏教の興隆や福祉に力を入れているけれど、それも兄弟の罪滅ぼしの気持ちもあったのだろうか。

長屋王や、藤原一族や、孝謙天皇や、あの時代を彩る人は、それぞれに強烈な個性と思惑があったのだろうけれど、誰も不思議ととても教養があって、しかも仏教への篤い崇敬の気持ちがあったことには感心させられる。

現代の権力者達は、あの時代の人たちに比べて、何かすこしでも後世に資する光をのこすことができるのだろうか。

映画 「出口のない海」

出口のない海 [DVD]

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第二次大戦中の、日本の回天特攻隊の話。

主人公は、架空の人物だけど、どうやら「きけわだつみのこえ」の中に収録されている和田稔中尉がモデルみたいだった。
和田さんの遺書がそのままラストのシーンでは使用されていた。

あの時代の人たちが、どんなにしたくてもできなかった多くのことを、今の私たちは自由に享受することができる。
そう思ったら、この自由やいのちに感謝して、日々をありがたく大切に生きていかないといけないなと思った。

スポーツにしろ学問にしろ恋愛にしろ、ふだんはそれらができることがあまりにも当たり前で、ありがたみを感じることもなく、日常の中のつまらない不満にふてくされたりしているけれど、本当はそれらができる自由や平和というのは、非常に稀有な、ありがたいものなのかもしれない。

日本の夏は、お盆と敗戦の日が重なるせいか、よく戦争を偲ぶ映画やドラマが上映されるけれど、それはすごく大事な大切なことなんじゃないかなとあらためて思った。

おそらく、違う色の地の上に何かの色を載せたらくっきりと見えるように、死というものを見つめないと生の本当の姿はよくわからないし、戦争というものを見つめないと平和や自由というもののありがたさは、なかなかよくわからないのかもしれない。

里中満智子 「女帝の手記」

おもしろかった。

奈良の大仏建立などの華々しい文化事業の背後の、いろんな人間模様が描かれていて、いつの時代も、けっこう人生ってたいへんで苦労が多かったんだろうなあと感じさせられた。

孝謙天皇道鏡は、一般的にはとても悪く描かれることが多い人物だけれど、この漫画だと、かなり良く描かれている。

以前、孝謙天皇の書を見て、とても見事な字だと感じたことがある。
暗愚な人だったら到底書けない、精神の格の高さを感じた。
だから、この漫画が描くように、孝謙天皇は暗愚な女帝ではなく、賢くて魅力的な人物だったんじゃないかなあという気がする。

それにしても、この漫画で印象深いのは、現実逃避を繰り返してひたすら仏教に救いを求める、半ば神経衰弱気味の聖武天皇の様子。
実際はどんな人だったのかはわからないけれど、あのわけのわからない遷都の繰り返し方や、仏教への入れ込み方は、この漫画が描くように、現実逃避へのすさまじい試みだったような気もする。

それに比べて、漫画の中での、聖武天皇の妻の光明皇后や娘の孝謙天皇のしっかりぶりは、とても印象的。
いつの時代も、男性の方が神経が弱くて、女性の方が案外強いのかもしれない。
光明皇后は、興福寺の阿修羅像のモデルという説を聞いたこともあるし、きっときりっとしたきれいな人だったのだろう。

そういえば、西大寺は、道鏡がつくったらしい。
西大寺は、真言律宗の本山だし、その後の日本の律や福祉を考える上で欠くことのできない重要な寺。
そんなすごい寺をつくったのだから、道鏡も、ひょっとしたら案外立派なお坊さんだったのかもしれない。

歴史は、敗れた側は悪くしか描かれないけれど、藤原支配を覆そうとした、あるいは天皇制そのものも覆そうとしたという点で、孝謙天皇道鏡は、日本の歴史上でも非常に稀な存在だったように思える。
良くも悪くも、後世の人は、なかなかそこまでの度胸の半分もなかっただろう。

鑑真や行基吉備真備など、天平時代はその後の日本を考えるにおいても、とても大きな影響を与えた僧侶や知識人が輩出した時代。
あらためて、興味深い時代だなあと思った。

斎藤茂太 「30歳からのオトナ計画」

30歳からのオトナ計画!

30歳からのオトナ計画!


ちょうど30歳になった時にこの本を読んだ。


・自分に対する要求水準をぐっと下げてみる。
・人生、100%を望まない。80%で満足する、少欲知足の生き方をしてみる。
・八割できれば上出来。
・人生のムダ、精神のぜいたくを楽しむ。
・日本人の「貧乏性」を克服する。
・友達をつくる努力を意識的にする。
・信頼のネットワークを広げる。
・多所懸命。
・「今が最善の時なのだ」と受け入れる。

といった生き方が提案されていた。
なるほど、と思った。
それまでの人生を振り返ると、ムダに完璧主義にとりつかれて、無意味に葛藤して苦しんだ時期もあった。
ある種の「貧乏性」にとりつかれて、あんまり余裕が心になく、肩に力が入りすぎていた時もあった。
肩の力を抜いて、人生八割上出来主義で、これからは生きていこうと読んだ時には思った。

うーん、できていることと、できていないことがあるなぁ。。

なるべく、忘れないように心がけよう。

シェイクスピア 「コリオレーナス」


コリオレイナスは、やっぱり面白い。
一般受けはしないかもしれないけれど、テーマが新しいと思う。

シェイクスピアというのは不思議な作家で、ずっと後世のテーマをどうしてあの時代に先取りできたのだろうと思うけれど、誤解を恐れずに今風な言葉で言うならば、この作品のテーマは「大衆社会における精神的貴族の悲劇」なのだと私は思う。

あるいは、この世においては、高貴な融通のきかない魂が、いかに生きていくのがむずかしいか、ということなのだと思う。
コリオレイナスはどこか屈原に似たものがある。

適当に民衆に愛想良くしていればいいものを、抜群の手柄と高潔な性格を持つコリオレイナスは、ローマの民衆に対して、不必要に傲慢な態度をとって自ら破滅する。

周囲の大人たちは、もっとうわべだけでも民衆に対して愛嬌を振舞うように言うのだけれど、コリオレイナスはある意味バカ正直で、よく言えば内外一致していて、傲慢さをかくさない。

もっと、要領よく振舞えばいいものを、と思わずにはいられないが、そこがコリオレイナスの悲劇なのだろう。

コリオレイナスはたしかに傲慢で要領が悪いけれど、べつだん傲慢という以外は何も罪はない。
それどころか、ローマのために命をかけて並外れた武勲を立てている。

しかし、そんな高潔で才能溢れるコリオレイナスを、ただ嫉妬と反感にかられてローマの民衆は引きずりおろす。
その姿は、時代を越えて大衆社会の状況を映し出しているようで、なんとも恐ろしいもがある。

この作品を貫いているのは、自分よりすぐれた人間を引きずりおろしたいという多数者の気持ちと、それに対して無防備な高貴な個人、の対立、そして前者が後者に対して圧倒的な優位を持つ、という悲劇なのだろう。

今の世には、根拠があってなんのとりえも才能もない人々を軽蔑する精神的な貴族と、根拠もなく他人をひきずりおろそうとする民衆と、そのどちらかがいるだけ、という内容のことをコリオレイナスは言い放つ。
これは、けっこう大衆社会に対する、痛烈な皮肉だと思う。

しかし、本当は、べつだんその二つがあるだけというわけでもないのだと思う。
才能のある高貴な魂の持ち主を、べつに嫉妬せずに、誉めて支える多数者のいる社会というのも、ひょっとしたらありえるかもしれない。
また、べつに大衆を軽蔑しないで、人それぞれに大変な人生と歩みがあることをよく理解し、べつだん演技ではなくて庶民を愛そうとするエリートというのも、ひょっとしたらありえるかもしれない。
もし、そうした多数者とエリートを持つことができた社会があったら、その社会はきっと幸せだろう。
その可能性をまったく見出そうとしなかった、見出せなかった所に、コリオレイナスの悲劇はあったのかもしれない。

コリオレイナスは、四大悲劇や他の劇に比べても、シェイクスピアの中で、私にとっては最も興味深いし、面白い。
それはたぶん、私だけではなくて、この作品は現代社会に生きづらさを感じている多くの人にとって、身につまされる作品なのではないかと思う。

映画 「パッチギ」

パッチギ! (特別価格版) [DVD]

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今から見るとちょっと滑稽な六十年代の様子。
米ソの戦争について心配する主人公たちや、毛沢東を熱く語る高校の先生や、北朝鮮がこの世の楽園だという在日の人たち。
後世から見るとナンセンスなそうした登場人物たちの台詞が、かえって今とはぜんぜん違う枠組みの中でも、当時の人々が今と変わらず笑ったり泣いたりしていたこと、人間として熱く面白く生きていたことを、よく浮かびあがらせていたと思う。
変わったものもあれば、変わらないものもあるのだろう。

愛や恋は国や違いを乗り越える、ってことがこの映画のテーマなのだろう。
民族の歴史や怨恨というものは、思っている以上に根深く重いものだし、決して簡単なものではなくて、未だに解決していないいろんな問題や分断というものもあるのだろうけれど、よく考えれば世界に眼に見える国境なんてないわけだし、違う民族であっても愛があっていいわけで、文字にしてしまうと陳腐になってしまうけれど、愛は国を乗り越えられるのかもしれない。
この映画を見ると、沢尻エリカがかわいく好演しているので、なんとなくそんなメッセージに納得させられてしまう。

それにしても、あんまり直接は映画では描かれないけれど、今からでは想像がつかないぐらい、一昔前の在日朝鮮人に対する偏見や差別は強かったのだろう。
昔に比べればましだったのだろうけれど、私が子どもの頃でも、韓流ブームが根付いた今に比べると、だいぶなんというか微妙な空気があったような気がする。

今もって、韓国では昔の親日派の財産没収などが最近行われた状態。
なかなか、人間としての愛や友情が国の違いを乗り越えるというのは、まだまだこれからの課題なのかもしれない。

そういえば、私が中学の時に、韓国人と日本人のハーフの女の子が同級生にいて、本当にかわいい子だった。
私の記憶の中では、沢尻エリカよりもかわいかった。
パッチギを見てて、なんとなくその頃のことを思い出した。

映画 「マザー・テレサ」

マザー・テレサ デラックス版 [DVD]

マザー・テレサ デラックス版 [DVD]

とてもよかった。
主役のオリビア・ハッセイが、二十年間マザーテレサを演じたいと思い続けてきたそうだけど、それだけあってなりきっていた。

マザーテレサも、最初にスラムで活動を始める時も、修道会をつくる時も、修道会ができたあとも、いろんな反対や妨害や摩擦があって、いつもいろんな困難にみまわれてきたのだなあと映画を見てて、はじめて知ることも多かった。
どんなこともすんなりとはなかなかいかないのだろう。

しかし、マザーの不動の信念はすごい。
なかなか、ここまでの、思い込みというか信念を、人は持てないし、持つことができればここまで偉大なこともできるのかもしれない。
「神のペンシル」という謙虚さと信念は、すごいなあと感嘆させられた。

マザーテレサとその修道会の活動は、間違いなく二十世紀の最大の奇跡のひとつだろう。
クリスチャンではない私も、胸を打たれるというか、きっと神様や仏様というのは、本当にいるのだろうという気にさせられるものがある。
無条件の愛、というのが、現代では、こんな時代であればこそ、本当に大切なものなのかもしれない。

大平光代 「だから、あなたも生き抜いて」

だから、あなたも生きぬいて

だから、あなたも生きぬいて

人生は、どこからでも出発点だし、どこからでもやりなおせるし、立ち直れるのだなあと思った。

良い本だった。

田中孝顕 「夢をあきらめる前に読む本」

夢をあきらめる前に読む本

夢をあきらめる前に読む本

なかなか面白い本でした。

著者が本書で提案するのは、

何十年も後の時点に立ってみて、
その時点から今を振り返って後悔してみよう、
それならば「後悔先に立つ!」だ、

ということです。

たとえば、今三十歳だとして、五十歳か六十歳を「トランスエイジ」として仮定し、その年になったつもりで今の年を振り返る。

そのことを、著者は「タイムプロセス法」と呼んでいます。

なんてことはない、ただで頭の中でできることですが、なかなか発想の転換には面白いなぁと感心しました。

八十歳の時点から今の自分を振り返ってみれば、まだまだ若いし、努力次第でなんでもできるし、思いっきり努力しなかったことを後悔するだろう、という気になってきます。

小林よしのり 「日本を貶めた10人の売国政治家」

日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書)

日本を貶めた10人の売国政治家 (幻冬舎新書)


編者は小林よしのり
二十人の言論関係の人がそれぞれに意見を述べていて、「売国政治家」として、小泉さんや河野さんや小沢さん、竹中平蔵さんなどの名前が挙げられて批判されていた。

面白いところもないわけではないが、ちょっとあまりにも罵倒スタイルな文章が多いところが、個人的には首をひねらざるを得なかった。

たとえば、小泉政治が、基本的に財務省アメリカの意向に沿ったものであり、その郵政改革や医療改革が大変な問題をはらんだものだったことは、私も異論はない。
しかし、すでに20世紀型福祉国家がそのままでは成りたたなくなっていたという歴史の大きな流れや、小泉政権よりも前の自民党政治が公共事業ばら撒きしかできない無能ぶりをさらし続けてきたことを考えれば、小泉・竹中両氏には、もちろん批判すべき点もあるながら、一定の評価すべき点もないわけではないだろう。

また、小沢一郎さんについても、単なる自民党内部の私闘から自民党を割って、理念なき政界をつくったように書かれているが、いささか偏った見方と思う。
加藤の乱後の加藤紘一ですら自民党に留まることができたのだから、本当に何の理念もなければリスクをとらずに自民党にい続けただろうし、官僚支配から脱却して政治主導のための改革をなそうとしていたという面も小沢さんにはあったと思われる。
理念もなく権力に執着して今の日本の混迷をつくった責任は、本書にも批判されているけれど、小沢さんよりはよほど河野洋平野中広務村山富市ら自社さ連立政権をつくった人々に起因するように思われる。

一応、本書においては、西尾幹二のように非常に一面的な小沢批判をしている人もいれば、勝谷誠彦副島隆彦のように小沢さんを擁護している人もいるので、必ずしもひとつの見方に偏っているというわけではないのかもしれない。
小泉さんについても、批判している人もいれば、かなり好意的な人もいるようではある。

ただ、なんというか、やっぱり全体として、冷静に政策の是非や歴史から見たときの意味をさまざまな角度から論じるということよりも、断罪と強い批判によるカタルシスに力点が置かれているように思われる。
今の若い人に一部ではけっこう反響があってよく読まれている本らしいが、これはこれで良いとして、またこの本とは違う視点や視野や論じ方も大事にして欲しいと思った。
たとえば佐々木毅の本を合わせて読むなどもして欲しいと思う。

平沼赳夫 「政治武士道」

政治武士道

政治武士道

平沼さんの生い立ちや人生が面白く回想されていて、読み物としても読みやすかった。

平沼さんの政治姿勢に賛同するかしないかは別にして、政治家の本では珍しく面白い本だと思う。

小泉改革への鋭い批判や、アメリカの年次改革要望書の問題の指摘などなど、部分的には共感するところも多かった。
その全てに賛同するかどうかは別にして、平沼さんは小泉政治に断固として反対したという点では、しっかりした信念のある政治家だと思う。

自主憲法の制定を掲げて、ほとんど地盤も看板も金ない中、徒手空拳で政治家を目指して立候補して、一軒一軒訪問し、自筆で葉書を書いて支持者を増やしていったというのも、すごいもんだなぁ〜っと率直に感心させられた。

また、小泉さんを「軽佻浮薄」とズバっと言ってのけてるのも、なかなか痛快だった。
そう言ってのけるだけの資格のある数少ない政治家では、平沼さんはたしかにあるのかもしれない。

ただ、なんというか、平沼騏一郎の養子という出自のせいもあるのだろうけれど、良くも悪くも、戦前の国家主義者みたいな気風漂う方だなぁ〜っと思った。
聴くだけ野暮かもしれないが、大逆事件についてはどう思っているのだろう。

たぶん、保守派の内部でも、平沼さんみたいな政治家は天然記念物のように珍しくなりつつあり、小泉さんやその亜流のようなポピュリストの方が自民党には多いのだろう。
左派の人からは、ひょっとしたら小泉さんよりも平沼さんの方がデインジャラスな存在とされるのかもしれない。
賛否両論いろいろあるのかもしれないが、とりあえず平沼さんのスタンスがよくわかる本だった。

池上彰 「高校生からわかる 資本論」

高校生からわかる「資本論」 (池上彰の講義の時間)

高校生からわかる「資本論」 (池上彰の講義の時間)


マルクスは文体が難渋で、正直かなり私はニガテ。
かの石川三四郎も、マルクスの文章の難しさとつまらなさに匙を投げたらしい。

しかし、池上さんの解説だと信じられないぐらいわかりやすく面白い。
資本論の第一巻の解説なのだけれど、とっても面白かった。

冷戦崩壊とネオリベのあとに、再び剥き出しの資本主義に直面している現代人にとっては、やはりもう一度マルクスを批判するにしろ評価するにしろ再読する必要があり、その時にこの本は入門書としては最適かもしれない。

特に、なるほどな〜っと思ったのは、以下のマルクスの言葉。

「洪水は我れ亡きあとに来たれ!
これがあらゆる資本家と資本家国家の合言葉である。
だからこそ資本は社会によって強制されない限り、労働者の健康と寿命に配慮することはない。」

「洪水は我れ亡きあとに来たれ!」というのは、「後は野となれ山となれ」という意味で、要するに資本主義のもとでは企業は目の前の利益や経営のことしか考えることができず、非情な資本の論理に突き動かされるために、社会や政府からの法律による規制や強制がない限り、労働者の健康や安全に配慮することはできない、ということだろう。

資本家個人はそれぞれに良い人もいるかもしれないが、非情な資本の論理に突き動かされざるを得ないというマルクスの分析や指摘もとても面白かった。

ソビエトや東欧や中国みたいな社会主義国家は、もちろん御免蒙るとしか、その歴史を見た人は誰でも思わないと思うが、かといって、剥き出しの資本主義というものの弊害も、心ある人ならば誰でも直視せざるを得まい。

特に、小泉改革以後、非情な資本の論理や自己運動を目の当たりにしている我々日本人としては、資本主義を適切に修正するためにも、マルクスの分析や指摘は、よくよく再読吟味すべきなのかもしれない。

さらっとすぐに読めるので、多くの人にオススメしたい一冊である。

浅田正博 「私の歩んだ仏の道」

[rakuten:book:11537429:detail]

著者は、最初は自力の仏教を求め、四国遍路や坐禅の修行に打ち込み、天台学も究めたが、最終的には浄土真宗の他力の教えに出遇った方。
その求道の過程が、とても読みやすく回想されていて、とても面白い一冊だった。

さまざまな人生の出来事や出会いを経て、親鸞聖人の念仏のみ教えを本当に受けとめていった遍歴が描かれていて、とても味わい深い一冊。

念仏には力がある、生死を超える力がある、

ということ、

および、如来のお慈悲に気づけば黒雲(煩悩や悩み)が光雲となる、という話は、とても感動させられた。

念仏に興味のある方に、オススメの一冊。

佐々木毅 「プラトンの呪縛」


とても面白かった。

二十世紀に、プラトンがどのように読まれたか、さまざまなプラトン解釈を実にわりやすく整理してあって、プラトンという鏡に映された近現代の思想の動向や歴史の動向が、とても生き生きとわかりやすく叙述してあり、なるほど〜っと思ったり、いろんな考えや興味を触発された。

私にとっては、さまざまなプラトン解釈の著述家の中では、ヴィラモーヴィッツとクロスマンのものが最も興味深く思われた。
この二人のプラトン研究は、いつか読んでみたいものだ。

また、著者が言うように、プラトン解釈自体としてみた場合にはやや強引な気もするが、ポパーが主張した、「漸進的工学」と「ユートピア工学」の話や、
「誰が国家を支配すべきか」という問いよりも、「悪しき、無能な支配者が余りに大きな害悪を及ぼすのを防止するような政治制度をどのように組織できるか」という問いの方が大事だ、というポパーの主張は、なるほどーっと思った。

また、よく考えてみれば、たしかに粗雑だし強引なのだけれど、ゲオルゲ派のプラトン解釈も、ところどころやけに共感する箇所があるのは、私の中にもやばい部分があるのかなぁとあらためて反省させられた。
ゲオルゲ派のプラトン解釈は、ナチスの精神的準備のようなものだったのだろうけれど、きっと当時の人々も、あの一見粗雑な議論に、何かとても共鳴共感するものを感じたからこそ、ゲオルゲ派やナチスがあのように台頭することになったのだろう。

戦後の、シュトラウスアレントプラトンをどう読んだかという話も面白かった。

著者が指摘しているように、プラトンは民主政治への警告者として、対話の相手として、今後も重要な意義を持つのだと思う。

また、ゲオルゲ派のような狂気をいかに避けるかということについても、プラトンの思想は、その長い解釈の歴史と一緒に、ひとつの思想史や鏡として、今後とも深く学ばれ検討されるべき対象なのかもしれない。

どうも私は、アリストテレスよりもプラトンに心惹かれて、今までもプラトンの方を多く読んできたのだけれど、この本を読んで、プラトンをもっと深く読みたいと思うのと同時に、アリストテレスをしっかり読まないとなぁとつくづく痛感させられた。

ピエール・レベック 「ギリシア文明」

[rakuten:takahara:10154092:detail]


きれいな写真が豊富に盛り込まれていて、古代ギリシャについて生き生きしたイメージを喚起させられる良い一冊でした。

古代ギリシャというのは、本当にすごい、現代の文化文明の源なんだろうなぁとあらためて感じさせられました。

アリストテレスの「アテナイ人の国制」や、その他のいろんな古代ギリシャ関連の本を、この本を読んでますます読みたくなりました。

竹中平蔵 「竹中教授の14歳からの経済学」

竹中教授の14歳からの経済学

竹中教授の14歳からの経済学


とてもわかりやすい、読みやすくて面白い本でした。

中高生向けに書かれた本ですが、大人が読んでも十分面白いと思います。
二、三時間あれば読める本なので、さらっと一度読んでみるといい本ではないかと思います。

経済に唯一絶対的な正解はない、という立場から、さまざまな問題への問いを持つことと、そのための解決案のひとつを自分として徹底的に考えることを勧めてあるのは、共感させられました。

竹中平蔵さんの政策や考えの全てに私も必ずしも賛成するわけではありませんが、考えの異なる人も耳を傾けて損はない内容のことが多々盛り込まれている本でした。

失われた十年の原因は何だったのか、郵政民営化とは何なのか。
それらの問いや解決策は、いまだにこれからも課題であることを考えれば、誰しもがあまり硬直した考えを持たず、絶対的な解答案はないという認識に立った上で、お互いに智慧を出し合い議論することが、いろんな考えの持ち主の間でも大事なのかもしれません。
そんなことをあらためて考えさせられる良い一冊でした。

小田真嘉 「成長法則」

成長法則 ひとつ上の自分に出会う3つのステップ

成長法則 ひとつ上の自分に出会う3つのステップ


とても良い本でした。

自己啓発本は、私はあんまり好きでないし、読んでもちっともためにならないものが多いと思う中で、この本はわかりやすく明快な内容で、いろんな質問項目に自分で答えていくことにより、自分の目標や価値観が明確化される仕組みになっており、とても啓発される良い本でした。

マイ・ゴール、マイ・ルール、マイ・スタンスの三つの「マイ」が最も大事というのは、本当にそのとおりと思いました。

自分なりの「三つのマイ」を探している人、さらに明確化したい人、まだ漠然としてよくそれがわからない人など、多くの人に読むことを勧めたいオススメの一冊です。

劉寒吉 「山河の賦」

山河の賦

山河の賦


「山河の賦」は、第二次長州征伐(四境戦争)の中の小倉口の戦闘、つまり小倉・長州戦争を描いた歴史小説

第二次長州征伐において、小倉藩は、幕府や諸藩の軍隊が傍観する中で、たった一藩、どこにも逃げるわけにもいかず、長州藩の軍勢と苦しい戦いを戦わねばならなかった。

しかも、幕府軍は総大将の老中・小笠原長行が単身逃亡、諸藩の軍勢は勝手に撤退。

その絶体絶命の小倉藩の軍隊を率い、鬼神の如き働きをして、圧倒的に不利な戦いの中で長州軍をゲリラ戦であちこちで撃破し、よく一藩の面目を保ったのがこの小説の主人公の島村志津摩である。

この小説では、精緻に当時の戦争の様子が諸資料をもとに再構成されており、読む人をして小倉戦争をリアルに眼前に彷彿とさせる。
島村志津摩のみでなく、今は名前もほとんど忘れられている、小倉藩の諸将・諸士の奮戦・奮闘ぶりが、本当によく描かれている。

愛する郷土を守るため、勝ち目のない戦いの中で最後まで力を振り絞って戦った島村志津摩以下の小倉の将兵たちの姿は、とても感動的である。

この本を読んで、小倉戦争はこんなに激しい壮絶なものだったのかと、改めて深く考えさせられた。
長州の軍勢は、戦術として、小倉の民家を次々に焼き払ったらしい。
歴史の教科書ではほんの一行か、あるいはまったく触れられない出来事も、本当は壮絶な出来事であり、多くの人の万感の思いのこめられたものの場合もあるのだと、あらためて思う。

劉寒吉は、戦前・戦中・戦後に北九州で活躍した作家で、この「山河の賦」は、戦時中に執筆されたものらしい。
そのためか、文中に独特の気魄と壮絶さがみなぎっており、今の世ではなかなか書けない迫真の戦闘歴史小説と思う。
劉寒吉は、おそらく、絶望的な戦いを圧倒的に不利な状況の中で戦うかつての小倉藩と、その当時の日本の状況を重ね合わせて見つめていたのだろうか。

私が四の五の言うより、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
これは、今も読み継がれるべき、すばらしい作品と思う。
ほとんどいまや無名になっているのが、もったいない作品と思う。

作中、小倉城が炎上し、一藩存亡の危機に陥った時に、島村志津摩が全軍の士気を鼓舞するために演説するシーンがあるのだが、このセリフがまた泣かせる。


「・・・われらは、あまりに自分自身の力を知らなんだ。信頼すべきは、わが軍である。信頼すべきは自分自身の力である」
 ひくい巌の上に立ってさけぶ志津摩のこえは、若い兵の胸をうった。志津摩は若い兵に自信を持たせようとしているのである。
「自分の力を信じよ。けっして負けない自信を持て。」(以下略)
志津摩のこえは切々として、二百の壮丁の胸をうった。
「勝つも、負けるも、ともに同じ日本人である。このことはかなしい。しかし、われらは大義の上に立とう。大義の道を進もう。いまや、われらの故郷は焼け、われらの住むべき家はない両親も姉妹もとおく去った。われらには信ずべき同志あるのみである。わしは荒涼たる故郷の山河を想う。たのしかった山も、川も、いまは敵兵の蹂躙するところにまかせている。美しい故郷の山河は焦土と化し、われらの夢は、炎上するお城の煙とともに消えてしまった。しかし、希望を持とう。なにもかも失い尽くしたわれらは、いまこそ、小倉武士の真骨頂をあらわして、顧慮するところなく戦うことができる。われらはたたかう。われらは失った故郷の山河を奪還する。いままでの戦は小倉藩自体の力ではなかった。きょうからは、わが軍の全力をあげて必死の戦闘を展開する。(中略)ほんとうの戦は、これからじゃ。われれは最後の一兵となるまで戦う。われらは祖先の眠る地から敵を撃退することを誓う」
(172、173頁)


こんなしびれる言葉を、しかるべき時にはきちんと言えるような精神を、日ごろから鍛えておきたいものだ。

作中の、志津摩のことばは、今の日本人こそ、胸に刻む必要のあるメッセージではなかろうか。

佐々木毅 「政治学は何を考えてきたか」

政治学は何を考えてきたか

政治学は何を考えてきたか


本当に、すばらしい本だった。
目の覚める思い。

我々が生きてきた時代がいかなる時代だったのか。
今はいかなる時代なのか。
これからはどうなるのか。

そうした問いに、はじめて明晰に、目からウロコで視界が開けた気がする。
学問というのは、やっぱりすごいものだ。

本書で著者は、二十世紀に特徴的だった一国民主主義的資本主義とその政治的自律性が、グローバリゼーションによって解体されたこと、その過程およびそれをめぐる議論を、とても鮮やかに描き出している。

著者が言うには、二十世紀の民主主義は政治と経済を組み込んでいたから安定したという。
つまり、「豊かな産業社会」を前提にし、国民規模での経済を、国家が安定して統御できるというシステムにおいて、利益政治を通じた分配がなされ、政治も経済も安定していた。

しかし、そうした国家と民主政治の二人三脚は、新保守主義イデオロギーによって、さらに近年のグローバル経済の急速な拡大・成長によって、もはや解体された。

つまり、市場経済と金融体制が支配していた十九世紀に、ある意味ふたたび似てきたとも言う。

「国家」民主政治が終り、権力の拡散が始まり、国際金融市場やグローバル経済の力の前に、国家は所得格差の拡大の甘受と、大量失業の防止策の決めてなしという事態に追い込まれていった。

つまり、「安定した民主制」を支える安定した経済的条件がなくなった。
それが二十世紀末から二十一世紀初頭に、時間差はあれど、米英や日本などが置かれてきた状況だということを指摘している。

先進国の中で一番最後に、この二十世紀型体制の再検討問題に直面し、もっとも長くその対処に苦しんだのが、バブル崩壊後の日本だと著者は指摘し、バブル崩壊からの日本の辿った道もわかりやすく明晰に描き出している。

それを読みながら、「ああ、そういうことだったのか」「そうそう、そうだった!」と、思わずリアルタイムにかつて私自身が見てきたいろんな出来事や世相を鮮やかに思い出しうなずかされながら、はじめて明晰にそれらの意味がわかった気がした。

著者が言うように、バブル崩壊とその後の日本の立ち直りの遅さや処理のまずさは、個々人の力量を超えた、五十五年体制の構造的な問題、つまり「仕切られた多元主義」という五十五年体制下のシステムがまったく新たな金融市場に対処できないシステムだったことによるのだろう。
個々の人間をあまり責めることのは酷かもしれない。
しかし、橋本内閣に顕著に見られるが、中曽根内閣以後小泉政権誕生以前の歴代の自民党政権および官僚の処理の失敗失策や無為無策には、読みながら改めて暗澹たる思いがした。
今更言っても仕方ないが、もっとうまく対処できなかったのだろうか。
そうすれば、これほどの国富がみすみす無駄に喪失されることもなかったろうに。

ただ、それらは、市場の力に政府が屈服していく、最終的な苦い闘いであり、今更言っても仕方がなく、これからはその市場の力を前提にし、政府の役割が限られる中で、社会的同質性が失われていく中で、利益政治から離脱し、どうやって新たな政治を描くか、ということなのだろう。

日本よりも早く二十世紀型体制の終わりと見直しを迫られたアメリカのさまざまなイデオロギーの論戦も、これからの日本を考える際にもとても参考になると読んでいてとても興味深かった。
政府の大小よりも、「苦い薬か甘い薬か」という争点は、まさにこれからの日本の政治の課題かもしれない。

9.11後の世界への展望についても、戦争が抽象的な原理をめぐっての戦争とならぬよう、説得と対話による「世俗化」「近代化」をイスラム諸国に働きかけていくべきという議論は、とても興味深く思えた。

また、著者が、ネグリの「帝国」論をとてもわかりやすく解説した上で、ネグリの帝国論には「帝国」と政治的自主性の摩擦が十分にとらえられておらず、「資本の論理か軍事か」という構造になっていると指摘し、政治的自主決定性とグローバル資本主義の構造的な妥協・調整の観点の必要を説き、政治的統合の重要性を主張しているのには、なるほどーっと思った。

また、第六章における十九世紀の思想家・アクトンについての論文や、第七章の「二〇世紀の自由主義思想」もとても面白かった。
これからの自由主義を考える際に、とても重要な見晴らしと刺激を与えてくれるものだと思う。

「アイデアは現実的な結果を伴う」
「政治はわれわれの自由の発露である」

政治思想研究と現実政治分析の対話・交響は、本書に見られるように、我々の自己認識と、そして現実的な結果にとって、たしかに最も重要な鍵なのだと思う。

佐々木毅 「政治学講義」

政治学講義

政治学講義


本書で著者は、「概念」は世界と現実についての見方を構成するとする。

概念の解釈は理論と実践を媒介する不可欠の要素であり、常に議論の余地のあるものだとする。
人間は、概念やものの見方について、常に解釈し、解釈しなおす存在だとする。

さまざまな経験的認識やその蓄積は、こうしたある概念に対するなんらかの解釈に基づいた理論的枠組みとの関係で、はじめて生命を吹き込まれるので、単なる経験データの蓄積だけでなく、概念や理論を見ていくことが政治学においても重要であるとする。

そうした概念への重視の認識の上で、著者は、民主主義や制度、政党、権力などのさまざまな政治学の鍵となる言葉・概念についての、近現代に行われたさまざまな議論をわかりやすく整理している。
ある概念についての解釈を共有するということは政治についての見方を共有することにつながるとも指摘されているが、そうであればなおのこと、たしかにこのような概念の整理というのはとても大事なことだろう。

こうしたさまざまな議論の整理によって、今我々がどのような時代に生きているのか、どう国家や政党や政治について考えればいいのか、かなり見晴らしのきく地図が提示されており、何度も読んで役に立つ本なのではないかと思う。

戦後のポリアーキーの成立や、「豊かな産業社会」の一時的な実現。
しかし、市場経済の力が増し、国民経済が終焉し、国家の統制力に限界が生じたため、「豊かな産業社会」も崩壊していったこと、などの今日までの流れや、それに対するリベラリズム新保守主義の応答やその限界などを見ていると、これからどうしたものか、かなり頭を悩ませられるが、こうした知的な見晴らしの良い地図があってこそ、これからの構想もしやすくなるかもしれない。

こうした時代の中で、政治について考える際に、著者は、「政治」を、単なる私的な利益集団の多元的な競合とだけとらえるべきではないとし、公共の利益・公的なものとの関連でとらえることを主張する一方で、公共の利益ということを実体視して、多元的な諸集団の声や利益を封殺することも批判し、

政治を「自由人からなる一つの共同社会の中での公共的利益に関わる、権力を伴った(権力をめぐる)多元的主体の活動」(47頁)と定義している。

そして、公的なもの・共通の事柄の追求と、主体の自由と複数性との、双方にこだわること、この緊張関係にこそ、政治の核心はあるとする。

たしかに、長年の利益政治によって、膨大な財政赤字と政治の金銭スキャンダルと国民生活の劣化をこの二十年見続けてきた我々日本人は、政治へのシニシズムや無関心や絶望に陥る前に、もう一度公共の利益ということについて、多様性や複数性を擁護しながらも、再び真摯に考えていくことが大事なのかもしれない。

公共の利益と多元的主体のあり方の双方に視野を置き、両者の緊張の中から新しい政治の可能性を追求するところに政治の妙味はあるということ。
「公共の利益という概念によって具体的に何を考えるのか」が肝心な問題であるということ。

単なる「ここ、今」の関心から離れて、「広い心」で行動すること。
それはたしかに困難であるが、「ここ」「今」の感心を空間的・時間的広がりの中で再検討することを促し、自己批判的反省力や公平さの感覚、多様性への感覚を含んだ政治的判断力に、「公民の徳」として求められるということ。

などなどのメッセージには、共感させられた。

「従って、何をしても無駄だ」と結論付けるか、
「それにもかかわらず、政治判断のためにエネルギーを注ぐべきだ」と結論付けるか、
これらは五十歩百歩のように見えるが、政治生活の運命を決したのは小さな政治判断の累積の結果であり、小さな違いが雲泥の差を生み出し得ることを直視すべきだ、
という著者の「むすび」のメッセージは、深く考えさせられる。(294頁)

著者は、必ずしも理想的な政治参加や直接民主主義的民主制の現実性に関しては、二十世紀のさまざまな議論を踏まえた上で、かなり冷静に距離をとって眺めているようであり、末尾でも、政治判断の主体には二種類のものがあるとし、
自ら政治判断の提示者になる、専門家として政治判断についての判断を生業とする集団(政治家、政党、ジャーナリスト、官僚、研究者など)と、それらのグループの政治判断の適不適を判断する一般市民との二つを区分している。

しかし、本書は、必ずしも前者の政治判断の提示者や専門家たちのみでなく(それらの人々の力量や判断力の養成こそ喫緊であり、本書はその役にも立つとは思うが)、後者の我々一般国民にとっても、この現実を見ることにおいて、とても見晴らしのきく地図を提供してくれる本だと思う。

二十一世紀において公民としての徳や責任を自ら担おうとする人には、オススメの本だと思う。

CD 「ピアソラ 天使のミロンガ」

ピアソラ:天使のミロンガ

ピアソラ:天使のミロンガ

  • アーティスト: クレーメル(ギドン),ピアソラ(アストル),ピアソラ,デシャトニコフ(レオニード),グプタ(ロルフ),クレメラータ・バルティカ,ポッシュ(アロイス),セブリュナイテ(ウーラ),スドラバ(マルタ),サハロフ(バディム),グロルビゲン(ペル・アルネ)
  • 出版社/メーカー: ダブリューイーエー・ジャパン
  • 発売日: 1999/02/15
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すばらしいの一言につきます。

ピアソラの世界に浸りまくれる一枚です。

しびれること間違いなし。

CD 「ピアソラ ベストセレクション」

ベスト・セレクション

ベスト・セレクション

ピアソラがまだ生きていた時の、貴重な録音。

これを聴きながら、コーヒーを飲んだり、読書をするのが、私にとっては至福のひとときです。

この渋さ、このかっこよさ。

やっぱりピアソラは最高です!

ピアソラの語りが入っている箇所もあります^

篠原昌人 「陸軍戦略の先駆者 小川又次」

陸軍戦略の先駆者 小川又次

陸軍戦略の先駆者 小川又次


面白かった。

小倉藩出身でありながら、天才的な軍人としての力量によって陸軍大将までなった小川又次の生涯について、よく調べて書いてあった。

江川塾で砲術を学び、第二次長州征伐では小倉藩劣勢の中の苦しい戦いを戦い、
西南戦争日清戦争日露戦争と最前線で激戦を勝ち抜いたその勇気と智謀は、「今謙信」と言われたのも諾なるかなと思った。

同じ小倉藩出身の奥保鞏将軍とは、阿吽の呼吸の肝胆相照らす仲だったそうである。
明治の陸軍においては、山県有朋らの主流派と、谷干城らの専守防衛派とが対立していたようだけれど、それともうひとつ、奥保鞏や小川又次や秋山好古らのように、一切政治には関係せず、ただ黙々と己の任務に最善を尽す寡黙な軍人たちの存在があり、彼らの派手ではなく地味だけれど、黙々と最前線で命を張って闘った功績のおかげで、明治の日本はなんとかなっていたのだろうと、この本を読んでてもあらためて思った。

個人的に興味深かったのは、メッケルらとの当時の陸軍の演習の様子である。
メッケルを感嘆させたとは、小川又次の用兵はよほど群を抜いていたのだろう。

あと、今までほとんど知らなかったので、興味深かったのは、桑名藩出身の立見尚文中将のエピソード。
いつかさらに調べてみたいものだ。

奥保鞏を描いた秋山香乃「群雲に舞う鷹」と合わせて、日露戦争や明治の陸軍や、古武士然とした人物に興味のある人は、オススメの一冊である。

佐々木毅 「民主主義という不思議な仕組み」

民主主義という不思議な仕組み (ちくまプリマー新書)

民主主義という不思議な仕組み (ちくまプリマー新書)


民主主義という不思議な仕組みを支える精神や知恵について、古代からの流れをざっと辿りながら、とてもわかりやすく、一般向けに、平明に書かれているけれど、内容はなかなか深い。

二十世紀になるまで、ほとんどの国ではめったに存在しなかった民主主義。
古代ギリシャが民主主義の発祥地だが、古代ギリシャの哲学者たちにおいても、民主主義はそんなに賛美されていたわけではなく、むしろ懐疑や批判の対象だった。
また、極めて狭い範囲の都市国家でしか成立しえないというサイズの問題があった。

この「必ずしも芳しくない評価」と「サイズの問題」の二つの民主主義のネックへの応答が、近代の政治思想の課題だった。
アメリカ独立革命は、「広大な共和制」を構想し、規模を大きくすることにより派閥の影響力をかえって相殺させること、および政府の諸機関を相互に掣肘させる仕組みをつくり、「サイズの問題」をクリア。
さらに、社会契約説や人権思想によって、近代の民主主義は古代にはなかった道義的な力も持ちうるようになった。

とはいえ、「広大な共和制」では、直接民主制は不可能なので、代表を選挙で選出することになる。
この代表が、誰を、どのように代表するのか、ということが近代以降民主主義国において問題となった。

議員は単なる選挙民の意向をそのまま反映するだけの「代理」なのか、それともある程度の裁量のある「代表」なのか。

選挙民の意向を至上のものとする「世論の支配」賛美と、世論はしょせんは愚劣なものであり指導者によって操作されるものであるという「世論への蔑視」と、その二つの間を大きく政治思想は揺れ動いてきた。

著者は、上記の流れを辿った上、この二つはどちらも両極端だとし、政治指導者と世論には「せめぎあい」があると指摘。

政治指導者の操作には限界があり、世論はそれなりの諾否の反応を持つ。
また、政治指導者は世論を単に反映するだけの受け身の存在ではなく、何を代表するかについて、常に自ら選択し、問題を提起することができる。
つまり、課題設定と政策提案の面で大きな役割を政治指導者は持っているとする。
また、この「せめぎあい」「世論と政治の接点」において、良質な報道の存在が重要となってくるとする。

だが、最終的には各個人の見識や行動が民主制においては重要であり、著者は福沢諭吉を引用しながら、政治への当事者意識を持った参加、および市民的不服従の二つの行動を、投票だけではない、民主政治にとって大事な要素とする。

そして、これからの政治の課題としては、政治的統合、つまり価値の優劣を政治が決める役割や働きを自覚し遂行することを挙げ、特に、必要最低限の生活水準は何があろうと国民に達成させる「動かない機軸」を示し実践することが、グローバル化の中での政府の役割とし、それがなければ国際競争力は上がらないとする。

「あれか、これか」ではなく「より良く」の発想と実践こそが民主主義の運営には大事、というのも、全くそのとおりと思う。

その運営に失敗すれば、「人民による政治」が必ずしも「人民のための政治」にはならないのが、民主主義の問題だが、少しでもその二つのギャップを埋めるには、「民主主義という不思議な仕組み」をよく理解し、その歴史や流れや教訓をつかんで、二十一世紀型社会を責任を持って構想する賢い選挙民と指導者が必要なのだろう。
そして、各人自分にできる範囲でそのことを心がけることが今後ますます喫緊の課題なのだと、この本を読んでてあらためて思った。

冬の道

「冬の道」


あてどなくさまよう心は、
凍てつく冬の寒さの中。


ぬくもりを求めんとすれども、
憩う場所もなし。


春は遠く過ぎ去り、
今は冬へ向かうばかり。


一人歩く道のりは遠く、
足どりは重し。


この胸に抱く面影のあらば、
まだしもぬくもりのあるものを。


今ははや、面影もなく、
ただ一人、歩むのみ。


冬の道歩き通さば、
いつか春に至らむか。


いつか春に至らむ、
ただ冬の道歩かむ。