色川大吉さんの訃報を聞いて

色川大吉さんの訃報を報道で知った。
高校や大学の頃、色川さんの書いた歴史の本が好きでよく読んだ。
民衆史、と言えばいいのだろうか、司馬遼太郎のような英雄の活躍ではなく、明治や昭和の時代の名もなき草莽の人々を描いた歴史は、とても胸を打たれ、多くのことを教えられた。
主に自由民権の歴史や、御自身が体験された昭和の戦争についての著書が多かったと思うけれど、中にはユーラシア大陸を横断した旅行記チベット旅行記などもあって、その幅の広さと豊かさがとても面白かった。
今の時代にはめずらしい、浪漫溢れると言えばいいのか、良い意味で専門に縛られない研究者だったのだろうと思う。
直接は一度もお目にかかったことがないのは残念だけれど、また時折御著書を読み直していきたいと思う。

 

https://www.asahi.com/articles/ASP976FPTP97UCLV00G.html?ref=gnp_digest

終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』を見て

終戦ドラマ『しかたなかったと言うてはいかんのです』を見た。
五輪の関係か、民放では本当に戦争の歴史を語り継ぐ番組が今年は少なかったというか、ほとんど見かけなかったが気がするが、NHKはこうしたドラマや他にもいくつか特集をきちんとつくってくれていた。
この作品も、良い作品だったと思う。
ドラマでは若干大学の名称が変えられていたが、戦時中に起った九大病院における米軍捕虜生体解剖事件を描いた作品だった。
登場人物の名前も若干変えられていたが、主人公のモデルは鳥巣太郎だと思われる。
また、巣鴨プリズンにおいて同じ部屋という設定で登場していた冬木という人物のモデルは、冬至堅太郎だと思われる。
冬至堅太郎は福岡では有名な文房具屋さんのTOHJIの社長を戦後つとめた方で、戦犯として死刑判決を受けたものののちに釈放され、膨大な手記を残している。
その一部刊行されたものを以前読んだことがあった。
その手記の中に岡田資陸軍中将が仏教の勉強会を開いて多くの服役中の人々を勇気づけていたことが描かれいていたが、このドラマに出てきあ岡島陸軍中将のモデルは、岡田資だろうと思われた。
そうした記録をきちんとよく調べた上でつくられたことがわかる、良いドラマだったと思う。
どのような状況であれ、非人道的なことにはきちんと抗議し、拒否できる勇気を持つこと。
それがあの時代の大切な教訓の一つだとあらためて思った。

戦没者の遺骨の追悼について

先日、録画していたTBSの「報道特集」を見た。
戦没者の遺骨についての特集だった。


先の大戦で、海外で死亡した日本人は240万人だが、そのうち112人万人の遺骨は未だに収集されずそのままになっていること、
そのうち30万人分が海中にそのままになっているとのことなどが紹介されていた。


私の大叔父はフィリピンのレイテ島で21歳で戦死しているが、空の白木の箱が返ってきただけで、結局遺骨は未だに一切帰ってきていない。


アメリカでは毎年100億円以上を費やして、戦死者の遺骨を集めDNA鑑定などを進めて可能な限り遺族のもとに届けるように努力しているそうである。


戦後の日本は長い間多くの場合ほとんど放置され、最近になってやっと行政が動き出したようであるが、もはやよくわからない場合も多いようである。


2001年に結ばれた国際条約により、2045年までに遺骨を収拾しないと、もはや日本は海底での調査や収拾は行うことができなくなるそうである。


また、番組では、戦前戦中に朝鮮半島出身者で過酷な労働などで日本で亡くなった人々の遺骨の問題についても触れられており、山口県宇部の長生炭鉱では、海底炭鉱の落盤事故で亡くなった多くの朝鮮人労働者の遺骨が海底にそのままになっていることや、東京にある国平寺というお寺には何百という家族がわからないその時代の朝鮮人の遺骨があり、お寺の住職が少しずつ韓国に渡って納骨しているという様子が伝えられていた。
福岡にも海の中道に海底炭鉱があり、当時多くの朝鮮半島出身の労働者が落盤事故で亡くなったそうだが、その遺骨などはどうなっているのだろうか。


また、番組では、A級戦犯として処刑された七名の遺骨について、米軍の公文書館から最近発見された資料についての特集もあり、当時七名の遺骨処理にあたった米軍少佐の孫にあたる方へのインタビューなどもあった。


鬼哭啾啾と言えばいいのか、国や民族は関係なく、どの骨も、平和に生きたかったことを告げたがっているように思えた。
日本の兵隊の場合は赤紙で、朝鮮人労働者の場合は徴用の青紙で、それぞれ紙一枚で事実上強制的に遠いところへ連れられて行って、無残な死を遂げた人々のことを、後世の私たちは忘れてはならないのだと思う。


今年も閣僚や元首相などが靖国神社に参拝したことが告げられ、一部の人々は愛国者ともてはやしていたようだが、本当に戦没者を悼むのであれば、きちんと遺骨を大事に持って帰って埋葬するはずであり、それを長くほったらかしにしてきたそれらの人々に真の愛国心戦没者を弔う気持ちがあるのか甚だ疑わしく思う。

アヴェスタを読んでの感想

野田恵剛『アヴェスタ 原典完訳』(国書刊行会)を読み終わった。
昨年刊行された日本初の原典からのアヴェスタの全訳で、なにせ640頁ぐらいあるので、なかなか読むのは大変だった。
訳者はさぞかし大変だったと思う。

アヴェスタは言うまでもなく、ゾロアスター教聖典である。
高校時代の世界史などで習って、名前だけは知っていたものの、中身を詳しくきちんと読んだことはなかった。
アヴェスタはササン朝ペルシア帝国の時代に編集されたそうで、もとはもっと長かったらしく、現存するのは四分の一ぐらいだそうである。
その中の最古の部分は、おそらくアケメネス朝ペルシア帝国ぐらいの時代のものにさかのぼるらしい。

ゾロアスター教は、ザラスシュトラゾロアスター)がつくった宗教とされている。
ザラスシュトラは正確な年代はわからないが、おそらく紀元前8〜10世紀頃の人物と推定されている。
というわけで、実際に編集されたのはのちの時代としても、ザラスシュトラの教えであるアヴェスタは、人類の最も古い宗教的文献と言える。

で、その内容なのだけれど、読んで感じたことは、二つあった。

ひとつは、いかに聖書や仏典がよくできているかにあらためて気づかされたということである。
アヴェスタは四分の一しか残っていないので、ひょっとしたら他の四分の三の部分にもっと豊かな内容があったのかもしれないが、基本的には多神教の神々への祭儀祭式のための朗誦の文章であり、日本の神道祝詞みたいなものである。
要するに、福を願い、災いを払う、除災招福の祈願がひたすら書かれており、それはそれで興味深くないわけではないが、聖書や仏典のような物語があるわけでもなく、人生への深い洞察があるわけでもない。
善思・善語・善行が強調され、悪思・悪語・悪行を避けるべきことが繰り返されるので、道徳的には高い意識があったのだろうけれど、それら善思や善語や善行の具体的な内容はほぼ全く書かれない。
パーリ仏典がいかに具体的に善思や善語や善行がどういうものかをきちんと細かく説明し、それに至るための実践的方法を詳しく記しているかに、アヴェスタと比較してあらためて気づかされた。
つまり、アヴェスタは抽象的で、あんまり具体性がないのである。

二つめは、一応、アフラ・マズダという神が創造神として存在しているのだけれど、この世の災いは悪魔(ダエーワ)とその中の最も強力な存在であるアンラ・マニユが創り出すものということになっており、基本的に善悪二元論で世界が構成されている、という世界観で、
その結果、幸福も災いも一つの神から発すると考える聖書と比較した場合、アヴェスタにはほとんど罪の意識が出てこないということである。
一応、犯罪や死の穢れについての箇所は出てくるけれど、あくまで単なる法的あるいは穢れの問題であり、自分の罪を深く認識して悔い改めるといった内面的な要素はほとんど見当たらない。
聖書の詩編が神との生き生きとした対話と自らの罪への深い嘆きや悔い改めの言葉に満ち満ちているのに対し、ほとんどそうした要素は見られず、極めて平板な除災招福のための祝詞みたいな内容である。
アヴェスタを読んでいると、いかに聖書が人間の真に迫ったものか、あらためて認識させられた。


以上の二つが感想ではあるのだけれど、アヴェスタそのもので面白い部分もないわけではなかった。
ひとつは、断片で他の部分が失われているので結局どうなったのかはよくわからないのだけれど、神々が人間に災厄を与えて三分の二ぐらいは滅ぼそうと考え、義人には要塞をつくってその中に動物や植物をいっぱい収容させるように勧告している箇所があった。
これは、要塞で、箱舟ではないものの、聖書のノアの話ととても良く似通っており、中東一円にそうした話があったのかと興味深く思えた。

また、個人的にアヴェスタで最も面白かったのは、義しい人が死ぬと、その人の信仰心が十五歳ぐらいの美しい乙女となって現れて、天国に連れて行ってくれる、一方、悪しき人が死ぬと、その人の信仰心が醜い姿で現れて、地獄に引っ張っていく、という話だった。

今でも世界に、十万〜二十万人ぐらいはゾロアスター教徒がイランやインドなどにいるそうで、クイーンのフレディ・マーキュリーや、指揮者のズービン・メータや、インドのタタ財閥などもゾロアスター教だそうである。
なので、今も活躍している人がいないわけではないし、善思・善語・善行を強調する教えは、きっと真面目で誠実な立派な人格を生み出す場合もあるのだろう。

ただし、少なくとも残っているアヴェスタから判断する限りは、聖書や仏典やコーランの方が、内容は奥深く面白く豊かなのように私には思えた。
だんだんとゾロアスター教が衰退したのは、やむを得なかったのかもしれない。
ただ、おそらくはザラスシュトラそのものは、今残っているアヴェスタとはかなり異なる、深い真理の響きがもっとあったような気もするが、何分文献がほとんど残っていないのでなんとも検証のしようがない。

ゾロアスター教から分派したのがマニ教だそうなので、次はマニ教もそのうち調べてみたいと思う。

ETV「心の時代」今井紀明「怒りを超えて優しさを」を見て

ETV「心の時代」の、今井紀明さんという方の「怒りを超えて優しさを」の回を、この前録画していたので見た。

https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/119PN5Y1W8/

 

今井さんは2004年にイラクで人質となった過去を持つ。

そういえば、当時高校生の人がイラクで人質になった報道をなんとなく覚えている。

 

詳しいことは当時は私は知らなかったのだけれど、番組を見ていて驚いたのは、無事解放されて帰国した後、「税金泥棒」とか「死ね」とか「キモイ」といった葉書や手紙が全国から自宅に届いたということだった。

 

今井さんは一度自分の心は死んだ、ということを話していたが、大げさではなく、本当にそうだったのだろうと見ながら気の毒に思えた。

 

その後、大学の時に良い友人に恵まれ、卒業後は多くの会社で落とされたものの、雇ってくれる会社もあり、なんとか立ち直っていったそうである。

 

それから、資金もノウハウもない中で、NPOを立ち上げ、貧困や虐待に苦しむ若者や児童の支援に尽力している様子が番組では紹介されていて、感心させられた。

 

孟子が「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ず先づその心志を苦しましむ」ということを言っていたけれど、将来多くの人を助けることができるようにするために若い時から苦労したのか、あるいは若い時に苦労したからのちに多くの人の苦しみがよくわかるようになったのか。

 

コロナ禍でその日食べるのにも苦労してる若者とのやりとりや、虐待で苦しんでいた児童の話なども紹介されていて、そういうところに働きかけている今井さんは偉いなぁと番組を見ていて感心させられた。

 

イラク人質事件の時に心ない言葉を浴びせた人々は、今このような様子を見たら、どう思うのか。人間というのは長い目で見ないとわからないことも多いのだとあらためて思う。

東京五輪の音楽担当者の過去の言動についての雑感

東京五輪の開会式の音楽制作に小山田圭吾という人が参加していたそうだが、その人の過去のいじめについて、最近問題になっていた。

さほど関心がなかったし、その人についてよく知らなかったので、そこまでひどいものとは思っていたなかったら、ネット上にそのいじめについて本人が語った過去の記事が紹介されていた。

https://koritsumuen.hatenablog.com/entry/20061115/p1

これはひどい。。
ここまでひどいとは。
ただただ絶句した。

なんでこんな人を五輪の担当に起用したのだろうか。
完全な人選ミスとしか言いようがない。
しかも、このブログも相当に前のもので、調べようと思えばこうした情報が十分に調べられたであろうに。

小山田圭吾氏が書いているようないじめは、私が通っていた中学や高校では全く見たことがない。
こんなひどいことが行われていたら、さすがに必ず誰かが注意したし、そのような状況を許さなかったと思う。
こんな腐った中学や高校って本当にあるのか。。
本人だけでなく、その周囲も腐っていたのでは。

義を見てせざるは勇なきなり、という精神は、こういう東京の私立中高一貫校には、しばしば欠如したものなのだろうか。
田舎だったら、普通に義を見てせざるは勇なきなり、ということを知っている人が複数はいるものだと思う。

なんというか、やっぱり日本はあちこちの人心が根本から腐敗腐朽しているのではないかと、小山田圭吾氏の話を知って思った。
やっぱりあちこちの根本が腐っていることが、諸般の問題の根源なのだと思う。
教育から立て直さないととどうにもならんのだろう。

できれば聖書を叩きこんだ方が良いと思うけれど、それがだめならば、せめても論語ぐらいは小さい頃から誰にでも叩きこんだ方が良いのではないか。
「己の欲せざることを人にほどこすことなかれ」と「義を見てせざるは勇なきなり」の二つだけでも叩き込めば、だいぶ変わると思う。

このような腐敗した人心や人選がまかりとおるようであれば、仮にコロナがなかったとしても、東京五輪など虚偽と腐敗の祭典にしか過ぎず、亡国の徴でしかなかったろう。
せめても人選の誤りだけでも事前に正されて良かったが。

やっぱり、人心の腐敗が日本の根本問題と思う。
聖書か論語か仏典か、いずれでも良いが、せめてもまともな人間性や道徳を立て直さないことには、この国の腐朽と衰退と壊滅は不可避ではないかと思う。

中村薫さんについて

真宗大谷派のお坊さんで、中村薫さんという方がいて、随分前に一度だけ御話を聞いたことがあった。
たしか、鳥栖九州龍谷短大で特別公開講演か何かがあって、そこで聞いたと思う。

だいぶ前に買っていたその方の『いのちの根源』(法蔵館)という本を、ふと昨日本棚から手にとって読み終えた。
靖国神社や部落差別などについて真宗の立場から論じてあって、真摯な本だった。

で、今日ネットで検索したら、一年ぐらい前の訃報を見つけた。

向こうはぜんぜんこっちを覚えていなかったろうけれど、そして私も長い間思い出すこともなかったのだけれど、深い御話をされる方だったと思い出す。

娘さんが自死されていて、私が聞いた時もその御話をしてくださっていた。

ネットにも、そうした御話を語られた法話の筆記が載っていた。
あらためて胸打たれるものがあった。
https://mjj.or.jp/katsudou/141213

 

落ち着く、というのは、地面に落ちて着いたということなのだろうか。

身の事実は誰も代わることができないということなのだろうか。

それでも、なおかつ生きていけるのが、念仏であり、如来の慈悲ということなのだろうか。

もう一つ、youtubeには十分ぐらいの中村薫さんの法話があって、亡くなる半年前の録画らしく、遺言のようにも思えた。

https://jodo-shinshu.info/2020/04/13/22534/

いろいろ多くの御本を書かれているようなので、そのうち少しずつ機会があったら読んでみたいと思う。