『マッカーサー大戦回顧録』を読んで

先日、『マッカーサー大戦回顧録』上下巻(中公文庫)を読み終わった。

これはもっと分量の多い回想録の太平洋戦争と日本の占領政策に関連するところのみを収録した版だが、読んでいてとても面白かった。

感心したのは、その卓越した戦略的頭脳と、沈着冷静なところと、味方に対してポジティブで適切に褒めて激励し、敵に対して寛大であるところである。

敬虔なクリスチャンで夜寝る前は常に聖書を読み、祈りを欠かさなかったというエピソードも興味深かった。

 

日本の占領統治においては、常に寛大であることと、日本人の自主性を尊重することを心がけていたそうである。

そうしないと民主主義や改革が支持されず根付かないからと考えていたそうだけれど、基本的にそれは正しい姿勢だったと思われる。

衛生の向上、女性の地位向上、農地改革など、多大な功績と思う。

 

他者感覚に優れていたのは、フィリピンでの長年の経験があったからのようである。

フィリピンでも、フィリピンの自治や民主主義を尊重し、戦時中も日本から奪い返した土地は、速やかにフィリピン自治政府の民政に移行するようにしたそうで、それゆえフィリピンで強く支持されたようである。

 

回顧録を読んで感じたのは、ややナルシストっぽいところはあるようで、かっこいいシーンにかっこいいセリフを言って決まること自体を無上の喜びとしていたようである。

ただ、基本的に金銭や異性に対して権力を使って貪るようなことがなく、ただかっこいい自分でありたいだけだったようなので、権力者として最も害のないタイプだったと思われる。

 

イギリスやオーストラリアやソビエトが、日本に対してもっと厳しい占領政策を要求していたのをおさえて、マッカーサーが寛大な占領政策を行ったのは、日本にとっては極めて幸運なことだったと思う。

マッカーサー自身が回顧録に記しているように、公衆衛生の向上に努めて結核コレラチフスを激減させ、多量の食料を援助して飢餓から救い、おおむね規律ある寛大な占領統治に努め、報復や迫害を日本にしないようにしたのは、大きな功績であり、歴史に残る善行と思われる。

また、女性の地位向上や選挙権の実現、農地改革、財閥解体軍国主義の除去と民主主義の制度的確立という思いきった改革の実現が、マッカーサー以外にできたのかは極めて疑問で、日本における立法者というべきか、ソロンやリュクルゴスに相当する人物だったようにも思われる。

歴史には稀に、極めて清廉で有能で、大きな改革をなすめぐりあわせの人物がいるが、マッカーサーはそういう人物の一人だったのだろう。

キリスト教と民主主義というアメリカの最良の精神と伝統を体現する人物がその時期の任にあたったというのは、日本にとって幸運だったと思う。

戦後レジームの脱却などと主張する人物が時折いるが、マッカーサー以上の人格と識見を持った人物でなければ、憲法や制度をいじっても改悪にこそなれ、改善にはならないのではないか、はたしてそういう人物がどれだけ日本の政界にいるのかと読みながら考えさせられた。

 

また、マッカーサー回顧録を読んでいてとても印象的なのは、部下の米軍兵士たちへの深い愛情や信頼と、フィリピン軍の兵士や民衆への深い共感や愛情や愛着である。

父親の代からフィリピンの政治や軍事に関わり、自身も長く住んで勤務し、フィリピン軍の創設にも大きく関わっていたので、フィリピンへの理解や愛着はとても深かったようである。

ゆえに、バターン死の行進や、多くの戦場での米兵やフィリピン軍兵士やフィリピンの人民が死は、マッカーサーにとっては非常につらく悲しい、憤らざるを得ないことだったことが回顧録を読んでいるとよくわかった。

その一方で、にもかかわらず、日本に対して寛大な措置を心がけ実行したところが大変立派なことと思われた。

おそらくは、毎晩聖書を読み、よく祈る敬虔なキリスト者としての日々のあり方が、恨みや怒りをおさえて浄化し、寛大な精神をよく養い陶冶し涵養していたのだろうと思われる。

 

なお、マッカーサー回顧録によれば、マッカーサー自身は日本国憲法9条を完全非武装主義とは考えておらず、あくまで侵略戦争を禁止するためのもので、自衛権は存在しており、危機には「最大の防衛力を発揮すべき」と主張している(中公文庫版下巻242頁)。

これが当初からそう思っていたのか、朝鮮戦争に際して後日修正した立場なのかは検討を要するとは思うが、少なくとも自伝執筆の時点では、上記のようにマッカーサー自身が考えていたということではあろう。

「第九条は、国家の安全を維持するため、あらゆる必要な措置をとることをさまたげてはいない。だれでも、もっている自己保存の法則に、日本だけが背を向けると期待するのは無理だ。攻撃されたら、当然自分を守ることになる。」(同241頁。)

 

あと、もう一つ、回顧録を読んでいてあらためて驚いたのは、マッカーサーは原爆の開発を全く知らなかったということである。

広島投下直前にはじめて聞かされたそうである。

トルーマンも副大統領だったのに知らず、大統領に就任してから知ったそうなので、さもありなんと思う。

本当にルーズベルト大統領と直属周辺だけで原爆開発はなされていたようである。

 

あとマッカーサー回想記を読んでてやや意外だったことがいくつかあった。

一つは、太平洋戦争の前半において、アメリカの物資補給やエネルギーはほとんど大西洋に集中されたので、マッカーサーは乏しい物資と兵員で戦わざるをえなかったという話である。

ニューギニア戦線でもそうだったらしい。

圧倒的な物量の米軍に物量の差で負けた、と日本側だと認識しがちだけれど、必ずしもそうでもなくて、むしろ米側の巧みな戦略戦術にしてやられたことも随分多かったようである。

アメリカは持てる力の七割をヨーロッパ戦線にそそぎ、太平洋戦線は三割の力で戦っていたそうである。

その三割のアメリカ軍に対して、圧倒的な物量と感じ、劣勢に立たされていた日本軍は、アメリカが十割の力で向かってきた場合、はるかに早く木っ端微塵になっていたのであろう。

 

また、やや意外だったのは、マッカーサービスマルク海海戦を転換点として重視してたことだった。

数多ある日本軍の敗北の一つぐらいにしか思ってなかったけど、この戦闘でニューギニア方面の日本の補給や輸送が完全に撃滅され、ニューギニアで米軍が勝利する決定打になったようである。

 

また、かなり意外だったのは、オーストラリアは当初日本軍の侵攻に震え上がって、国土の五分の四を放棄して首都近郊に防衛ラインを引く予定だったそうである。

マッカーサーがやって来て説得して、防衛ラインをニューギニアに引いたそうである。

マッカーサーの説得がなければ、オーストラリアは首都近郊に防衛ラインを引いて、日本軍は速攻でオーストラリアの北岸を占拠できていたのだろう。

とすると、太平洋戦争の流れもかなり違っていたと思われる。

マッカーサーはオーストラリアの首脳との関係が極めて良好で、オーストラリアとの連携や協力関係はとても良好だったそうだ。

アイゼンハワーが欧州で政治的手腕を発揮したのに対し、マッカーサーはフィリピンでも日本でも皇帝のように振る舞っていたので政治的能力が育たなかったので大統領になれなかった、という説を聞いたことがあるが、オーストラリアではかなりの外交的手腕をマッカーサーも発揮していたようである。

 

また、やや意外なこととしては、真珠湾は非常に強力な海軍基地なので、日本軍が攻撃しても撃退できるとマッカーサーは信じこんでいたという話があった。

そのため、当初の作戦も日本軍の真珠湾攻撃失敗を前提に考えていたそうである。

なので、最初のほうにつまずきや錯誤があり、アメリカ軍は大変だったそうである。

とはいえ、その後のマッカーサーのバターンまでの撤退作戦は見事だったようで、日本軍の目論見をかなり狂わしたとマッカーサーは主張している。

これに関しては異論もあるようだが、マニラを戦場にせずに迅速に撤退し、バターンで抵抗するというマッカーサーの采配は、初戦の劣勢においてはそれなりに見事な作戦だったように思われる。

 

あと、回顧録を読んでいてやや意外だったのは、山本五十六について、戦争開始前は戦争に反対していた人物だったと記していることだった。

きちんとそういうことはわかって認識していたことに驚いた。

また、日本軍の戦略的頭脳とも形容していた。

山本五十六については、日本海軍の第一人者で、勇者とも記していた。

山本五十六ブーゲンビル島に視察に訪れるという暗号を解読した時、謀略だと疑うスタッフも多かったのを、マッカーサー山本五十六はそういう人物なので本当の情報だと判断し、熟練のパイロットに追跡撃墜を厳命したそうである。

マッカーサーの判断がなければ、山本も死なずに済んだのかもしれない。

敵軍の将についてもその経歴や性格について深い理解を持っていたことが、しばしば戦争の帰趨においても決定的に重要な判断となったように思われた。

日本はどの程度、敵将の人格まで把握していたのだろうか。

 

なお、マッカーサーはバターンの防衛戦で、常に死地に身を晒し、一般兵士と苦楽をともにしたことを回顧録において強調している。

脱出してオーストラリアに行ったことは大統領命令だったので仕方がなかったと強調しているが、たしかにそうではあったのだろう。

太平洋戦争中、日本軍の将校にも中には立派な人はいたのだろうけれど、しばしば最前線で一般兵士が苦労している時に芸者を呼んで宴会をしていたとか、それどころかフィリピン戦線では部下の将兵を置き去りにして飛行機で逃げ帰った将校もいたということを考えると、マッカーサーは本国の命令で最終的には脱出するものの、バターンの要塞で最前線で指揮をとってその身を危険にさらし続けていたし、食料も乏しかったので自分も粗末な食事だったという話を聞くと、そこからして勝敗はおのずとわかるような気もした。

 

もう一つ、マッカーサーの回想記を読んでいて意外だったのは、海軍側がフィリピンをスルーして台湾を攻撃すべきだと合同会議で主張したのに対し、マッカーサーがフィリピン奪回を主張し台湾攻略は無意味だとルーズベルトを説得したという話である。また、私はてっきりマッカーサーアメリカの太平洋方面の軍隊を統括していたと思っていたら、そうではなくて、マッカーサーは南西太平洋方面軍を率い、キングやニミッツが太平洋方面軍というのを率いていて、指揮系統が全く別だったという話である。

マッカーサーはフィリピンとニューギニアでの戦場を専ら担当してて、基本的に沖縄戦は関与しておらず補助的な役割にとどまっていたようである。

また、1945年段階では沖縄戦に異議は唱えていないが、もともとは沖縄は戦場にすると自他に被害が大きすぎるので避けるべきと主張していたそうである。

連合国軍総司令官に就任したのは1945年8月15日だったそうである。

 

ちなみに軍事史的にマッカーサーが高く評価されるのは、2つの点のようである。

一つは「カエル飛び」作戦で、敵の拠点の島をひとつひとつぶさず、かなり距離の離れた先にある島嶼のみに集中攻撃して占領し、制空権や制海権を奪って他は無力化し兵糧攻めにするという作戦である。

もう一つは、陸海空軍同時運用であり、マッカーサー自身は、陸海空軍同時運用のことを三位一体とも呼んでいる。

どちらも今では当たり前かもしれないが当時は画期的だったようで、極めて効果をあげたようである。

フィリピンでは陸上兵力は日本のほうがかなり大軍だったが、この方法で米軍は圧勝したそうである。

もっとも、日本軍の航空戦力と海軍が壊滅していたので、日本軍はその三つを同時に運用したくてもできなかったということなのだろう。

ただ、それを割り引いても、日本の陸海軍の仲の悪さと連携の不足はよく指摘されるので、米軍もややそういう傾向はあり、しばしばマッカーサーが苛立ったことも回顧録に記されているが、おおむね陸海空が米軍は効果的に協力できたし、それにはマッカーサー指導力や調整力が大きかったということなのだろう。

 

なお、感心したのは、マッカーサーは日本軍がフィリピンに侵攻した時にマニラからすぐに撤退し、マニラが戦場にならないように配慮し、マニラの非武装都市宣言をしたということである。

こういう配慮が日本軍の側にもあれば、スペイン時代から続いていた美しい古都マニラの破壊はなかったのかもしれない。

スペイン植民地時代に建設された大きな教会建築がマニラはかつては数多くあったそうである。

しかし、日本軍の防衛の拠点となってアメリカとの激しい戦闘の戦場となり、40以上存在していた大聖堂が3つしか残らなかったそうである。

マッカーサーのほうが、アジア解放を主張する日本軍の司令官たちよりもフィリピンへの理解や愛情が深かったようで、マッカーサーは古都マニラが破壊されないように最大限の配慮したが、日本軍にはそうした配慮がなく、マッカーサーはマニラの破壊を何よりも嘆いたことが回顧録を読むとよく伝わってくる。

思うに、日本軍の将兵の多くは、あんまりマニラの教会建築や景観の保存には関心も価値も見出しておらず、軍事的目的からすれば二の次三の次ぐらいにしか思っていなかったのだろう。

マニラの保存や、さらには京都への爆撃を慎んだアメリカは、やはり日本よりはその点大人の国だったように思われる。

 

また、回顧録を読んでいて感心したのは、マッカーサーが文が立ち弁が立つことである。

回想記には多くのマッカーサーの当時のスピーチも引用してあるのだけれど、それらも簡潔にして胸を打つものが多いし、文章も読みやすくて面白い。

特に感銘を受けたのは、戦没者を讃えたある演説での、「彼らの築いた昨日こそが、われらの明日を可能にしている」という言葉だった。

"duty, honor, country"の演説や「老兵は去りゆくのみ」のフレーズが有名だが、他にも多くの名演説や名文があった。

カエサル以来、欧米には文が立ち雄弁な軍人という伝統があるが、マッカーサーもその一つの峰だと思われた。

 

なお、この中公文庫版の回顧録マッカーサー回顧録の一部分で、朝鮮戦争の部分はないので、後日その部分は別に読んでみたい。

日本との戦争や占領ではこれほど卓越していたマッカーサーが、朝鮮戦争では判断を誤った上に過剰な攻撃を主張し、トルーマンから罷免されたとは、老齢が大きかったのだろうか。

いかなる英雄も老いには勝てぬということなのだろう。

マッカーサーの中国に原爆を二十六発打ち込むという計画がトルーマンに却下され罷免されたのは、自身は無念だったかも知れないが、マッカーサーにとって極めて幸運なことだったと思う。

そうでなければ大量殺戮の汚名を歴史に連ねたろう。

トルーマンの罷免のおかげで、歴史上めったにないほどの大量殺戮の悪業を積まずに済み、基本的に良い功績だけで人生を終えることができたのは、マッカーサーにとって極めて幸運なことで、日本における善業の数々が本人を守ってくれたということなのではないかとも思う。

 

「付記」

 

マッカーサーはフィリピンを押さえるかどうかが太平洋戦争にとって最重要と記していた。

そのとおりだったと思う。

日本側も必死で防衛に努めたのだろうけれど、フィリピンでは圧倒的に民心がアメリカを支持していたというのが日本軍にとっては痛恨だったと思われる。

現地の人々が抵抗ゲリラとなって米軍に協力したのは日本軍にとって決定的に痛手だったと思われる。

アジア解放を掲げる日本よりも、植民地支配を行っていたアメリカのほうがなぜフィリピンの人々に支持されたのかについては、以下のような理由があると思われる。

 

1,1934年のタイディングス=マクダフィ法で十年後の独立がすでに決定しており、日本の「アジア解放」がフィリピンの場合は必要がなくて迷惑以外の何物でもなかったこと。

 

2,1と関連して、1935年からすでに自治政府が存在し、21歳以上の読み書き能力のある男性には選挙権が与えられ、選挙によって選出された国民議会があり、かなり高度な自治と自由をすでに持っていたこと。

 

3,国民の大半がカトリックキリスト教国であり、プロテスタントではあっても同じキリスト教国であるアメリカのほうが、天皇崇拝や神道を押し付ける日本より共感しうるものだったこと。

 

4,フィリピンのエリート層はアメリカと深い結び付きを持っており、たとえば当時の自治政府の大統領のケソンはマッカーサーと四十年来の親友であり、またそのようなエリート層が国民から深く信頼され尊敬されていたこと。

 

5,日本が物資の欠乏から、現地の食料や資源を供出させたため、フィリピンの一般庶民レベルでアメリカの支配下よりも生活が悪化したという感覚とそれへの反感が根強かったこと。また一部に日本軍による婦女暴行やビンタなどが横行したこと。

 

6,太平洋戦争の展開が、アメリカが優勢で日本が劣勢だったこと。勝ち馬に乗ったほうが戦後に有利であり、独立できると考えたこと。

 

などなどの、理由が大きかったのではないかと思われる。

第二次大戦当時、フィリピンはすでにアメリカから独立が確約され、国民の選挙にとって選出された自治政府が存在していた。

スリランカもイギリス統治下で憲法と選挙に基づく自治議会が存在していた。

台湾や朝鮮には全く独立の約束も自治議会もなかったのだから、アジア解放の声も虚しいと、アジアの人々からは受けとめられたのだろう。

また、日本の場合、善意で日本語や天皇崇拝を押し付けて同化を進めようとして、反発を受けると激怒して弾圧するので、現地の人にとっては最も嫌な植民地統治だったのではないかと思われる。

米英は現地の文化や宗教にあまり干渉せず、一応尊重する姿勢は示していたので、その点巧みではあったのだろう。

結局は、他者感覚の有無が勝敗を分けたのかもしれない。