「信じること働くこと カーター自伝」を読んで

『信じること働くこと カーター自伝』を読み終わった。

第三十九代アメリカ大統領のカーターの自伝である。

本書は政治的な回顧録ではなく、もっぱら著者のキリスト教信仰についての本で、信仰を軸にした人生経験の回想が綴られている。

 

読んでいて思ったのは、信仰をこれほど真摯に語る人が、政治家を、しかも大統領をやっていたということへの意外さと驚きである。

聖書の言葉を適宜引用しながら、信仰と人生について深い思索と体験が本書では最初から最後まで真摯に綴られている。

日本の、ろくに聖書や仏典も読んだことがなく、俗臭芬々たる浅い精神の人間しかほとんどいない日本の政界となんと違うのだろうか。

 

カーターにとっては、キリスト教は自分自身の行動指針であり、大統領であった期間も、日々詩編の19編を読み直し念じながら執務にあたっていたそうである。

 

「私が追求している目標は妥当なものか?私は自分の個人的な道徳律、即ち私のクリスチャンとしての信仰と私の現在の境遇における義務に基づいて正しいことをしているか?そして最後に、私に与えられた選択肢に基づいてベストを尽くしたのか?もしこれらの問題点をすべて神に示した上で、私に駅る限りで最善の決断を下すならば、物事はたいていうまくいく。たとえ、私にできるすべてをやった上でなお失敗するならば、「それならそれでよい」と言うことが許されていることを私は知っている。問題を神の御手にゆだねることは、結果がいかにあろうとそれを受け入れることができる心の平安を私に与えるのである。」(116-117頁)

 

このような自省と信仰で、万事を考えていたそうである。

 

このようなカーターの精神は、プレインズという南部の田舎町で敬虔な信仰を持つ両親によって培われたことが本書には記されている。

まるでアメリカの昔のドラマに出てくるような、教会を中心としたあたたかな、町全体が一つの家族のような、素朴で敬虔な故郷だったことが記されている。

カーターの父は農業のかたわら、教会の日曜学校の先生を務め、地域の福祉にも積極的に努めていたそうで、カーター自身も後年、教会の日曜学校やバイブルクラスの先生をずっと務めていたそうである。

カーターは若い頃は海軍に勤め、原子力潜水艦の乗組員として長く勤務したそうだが、その間も日曜の礼拝には欠かさず参加していたそうである。

その後、父の死をきっかけに故郷に戻り農業用品のビジネスなどをして、それから州議員や州知事、そして大統領になっていったそうだが、一貫して行動指針はキリスト教だったとのことである。

 

時に大きな挫折感を抱え、信仰自体が揺らぎ、疑いを持ったことがあったことも、本書には率直に書かれている。

カーターは、信仰は懐疑と矛盾するものではなく、むしろ疑いも含めて、信仰というものが存在していることだと本書で幾たびか述べている。

また、信仰と行いは両方が大切で、キリストを信じその無償の救いを恵まれた者は、その後はキリストの諸性質を身につけ実践するように努めるべきだということを、主にヤコブ書を引用しながら、再三主張している。

 

そして、イエスの生き方を想起した上で、以下のような問いと行いを提起している。

 

「私たちは皆、自分自身を、自分たちの状況を、そして自分たちが生きている環境をよく見つめ、こう問うべきである。自分の能力と可能性の範囲内で、私にはどんな良くてうるわしいことができるだろうかと。」(278頁)

 

カーターは、上記のことを自ら実践し、大統領退任後は「カーター・センター」を設立し、世界各地の紛争の調停や和解、さらには感染症の撲滅等々に尽力してきたことも本書には記されている。

また、「ハビタット」という団体に関わり、ホームレスなどの人々に住む家を提供する活動を行ってきたことも記されている。

本書を読んでいて感心したのは、こうした活動について、少しも偽善臭がなく、喜びに満ちて書かれていることだと思う。

 

イランの米大使館人質事件によって支持率が急落しなければ、あるいは大統領としてもう少し長く務めることができたのかもしれないが、大統領退任後の活躍を思えば、それもまた神の適切な御計画だったのだろうとカーター自伝を読んでいて思えた。

 

これはオバマ自伝を読んだ時も思ったことだが、このような哲人的な人物が大統領になりうるアメリカというのは、あらためてすごいものだと思えた。

もっとも最近は違うようではあるが、またこうしたアメリカの持つ懐の深さや賢明さが発揮される時代も来ると思われる。

日本は、いったいいつになったらこうした精神的に高貴で深みのある人物が政治的に活躍できる日が来るのだろうか。

 

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