今日考えたこと メモ

今朝は、明け方、右の首筋と肩の痛みで目が覚めて、眠れなかった。
この数日、痛いとは思ってたのだけれど、まさかここまで悪化するとはなぁ。
去年も一度悪化してどうにもならなくなったことがあったので、そこまで悪化する前にと思い、昼から整体に行ったら、だいぶラクになって痛みがとれた。
凝りがひどかったのがだいぶとれた。


にしても、人間というのは、何かがちょっとどうかあると、本当に難儀するものである。
人が幸せであることや健康であることは、本当に稀有な、ありがたいことかもしれない。


それと、今日は、エフェソの信徒への手紙の三章のパウロの祈りのあたりを読んでて、深く考えさせられた。
信仰により、心の中にキリストを住まわせること。
過去を振り返ると、なんと自分は、心の中にキリストを住まわせるどころか、その真逆な生き方をともすればしていたことが悔いられた。
キリストの愛に根差し、基礎を置くといことも、同じ箇所で説かれているが、それが本当に人生において最も大切なことなのだと今思う。


エフェソ書には、「心の目を開く」ということも書かれているのだけれど、聖書を繰り返し読んで、はじめて心の目・魂の目というのも、開けていくものなのかもしれない。


自分の人生を振り返ると、失敗や悔いられることや、不如意なことや悲しみが多かったし、これから先もどうなるかはわからないけれど、なんであろうと、キリストに従って行こうと思う。


これは他人にとってはどうでもいいことなのだけれど、自分の中の思考の整理として、仏教をキリスト教の観点からどう位置付けるかということを考えると、おそらくロマ書の中に出てくる「自然の律法」に仏教、特にもともとの仏教のパーリ仏典の内容は該当すると思う。
したがって、自然の律法としては妥当であるし、有効なものだと思う。
ロマ書には、「自然の律法」と「啓示の律法」とがあり、後者が旧約聖書の内容だけれど、前者は哲学の中のすぐれたものや仏教を指すと見て良いと思う。
そのうえで、思うに、完璧に律法を実践すれば、それでも救われるのかもしれないけれど、本性上腐敗していて罪にまみれている通常の人間の場合、つまり凡夫の場合、「自然の律法」にしろ「啓示の律法」にしろ、部分的にはともかく、完全に遂行することは困難なのだと思う。
もちろん、部分的にでも実行すれば、その分素晴らしいとは思うし、それなりに有効と思うが、凡夫や罪人にはそれで救われることは千中無一なのではないかと思う。


ゆえに、福音による、ただ信仰による救いがあるのだと思う。


では、仏教の内部において信仰による救いを説いた浄土教は何なのかというと、これは旧約聖書中にすでに信仰による救いを説く箇所がしばしば存在し、特に詩編に集中的にあるように、自然の律法である仏教の内部において、信仰による救いを先取りしたものであって、旧約中の新約的なもののようなものなのではないかと思う。
ただ、キリストそのものの全き認識に到達しなかったので、おぼろげながら、キリストの救いを間接的にとらえたものなのではないかと思う。
つまり、かたやガラス一枚越し、かたやガラス八枚越しぐらいの、おぼろな救いの光なのではないかと思う。


上記のことは、むろん他人にとっては違う観点もありうると思うし、おそらく仏教の人にとっては異論や反論もあるとは思うが、自分としては今のところ上記のように整理して考えている。
つまり、仏教は、日本やアジアにとって、旧約のようなもので、浄土教は旧約中の新約的な詩編のようなもので、福音によって凡夫や罪人もダイレクトに救われるのではないかと。


もちろん、上記のことも、今のところの整理であり、また違う反駁や整理の仕方もありうるのかもしれない。


いずれにしろ、人にとっては、福音と啓示の律法と自然の律法は、どれも学ぶべきことであり、最も重要なものは福音ではあるが、己の力や器量の耐えるにしたがって、啓示の律法も自然の律法も学んだ方が良いのだと思う。


次に、福音ということについてなのだけれど、どうも、この頃の自分の感想としては、福音書そのものを読むことも福音の理解に不可欠なのだろうけれど、パウロの書簡、つまりロマ書やエフェソ書を熟読することが、福音の理解に最も大切なことなのではないかと思う。
パウロ書簡のすごさを、私は恥ずかしながら、つい最近になってやっとひしひしとわかるようになった。


などということを、つらつらと今日は考えたが、どうも具合が悪いと、精神的にも力が出ずにいけない。
人というのは厄介なものである。






今日、徳島キリスト集会の「いのちの水」誌の636号を読んでいたら、ヒルティの言葉を引用しつつ、人生の目的は「神から良きものを受け取り、それを他者に分かつこと」と書いてあって、なるほどーっと思った。本当にそのとおりだと思う。