ヨハネ福音書およびヨハネ第一書に言うところのロゴスとは何だろうか。
永遠のいのちとしてのキリストと、実際に肉体を持って現れたキリストを区別するために、前者をロゴスと呼んだのだろう。
仏教には似た考え方があり、法身仏ないし報身仏と、応身仏ということが言われる。
応身仏というのは実際に肉体となって現れた釈迦牟尼仏などで、法身仏は永遠の真理、報身仏は法身仏が抽象的な原理なのに対しより人格的な内容だけれども歴史上の存在というわけではない阿弥陀仏などのことである。
親鸞聖人の和讃にも、
「久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあはれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する」
というものがある。
永遠の存在である阿弥陀仏は、煩悩の多い凡夫たちを哀れみ、歴史上に釈迦仏としてカピラヴァストゥに出現した、という意味である。
ただ、仏教だと、阿弥陀仏と釈迦仏にのみ限らず、他にも複数の法身仏・報身仏・応身仏が存在し、ある意味普遍的な、逆に言えばとらえどころがなく際限がないのに対し、キリスト教の場合、ロゴスおよびそれが実際に受肉したのはキリストのみということのようである。
仮に永遠の真理やいのちを、ロゴスも法・報身仏もどちらも指しているとすれば、それがイエス・キリストにのみ受肉したのか、あるいは釈迦仏や複数の歴史的な存在として現れたのか、宗教や人によって考え方は大きく違うのかもしれない。
シュタイナーやバハイ教や浄土宗光明主義などは、複数の顕現があったという見方のようである。
一方、キリスト教は、通常、イエス・キリストのみにロゴスとその受肉・顕現を限定して考えるように思われる。
ただし、キリスト教の中でも、滝川克己は、複数説をとったうえで、最も純粋な顕現をイエス・キリストと考えているようである。
理屈の上では複数説はもっともなことだけれど、これは下手をすると際限のないとらえどころのない話になってしまい、観念的になりがちな気もする。
一方、真理の顕現をキリスト一人に、あるいは釈迦仏一人に限った場合、一見偏狭なようで、少なくとも抽象的にはならず、具体的に真理に肉迫しやすいような気はする。
私自身の立場は、滝川克己に近い感じ方を持っている。
つまり、釈迦仏や法然上人や、あるいはイスラムのルーミーや、ユダヤの幾人かの卓越した人々や、いろんな歴史上の人々に、非常に永遠のいのちや真理に接近した、永遠のいのちや真理をよく表現し顕現した人物が、歴史上には複数存在するように思う。
しかし、最も純粋に永遠のいのちや真理を顕現したのはイエス・キリストだったように思う。
もっと言えば、キリストとその他の人物は、何か質的に隔絶したものがあるような気がする。
シュタイナーが、論理的・合理的にはキリスト教よりも仏教の方にすぐれたものが多く、精神的な境地でも仏教の方に高いものが多くあるということを一応述べた上で、しかし「キリスト衝動」というものはキリスト教に特有のもので、他の宗教には見られないと言っている。
本当にそのとおりと思う。
つまり、キリストから発する、何か理屈を超えた愛や自己犠牲や利他の心は、何かしら質的に他と異なるものがあるし、「キリスト衝動」としか呼べないものがあると思う。
もちろん、仏教の慈悲も非常にすぐれたものであり、人として最高の境地と思う。
人間の心の分析や洞察として、また慈悲の心を育てる具体的な方法として、仏教はキリスト教より優れているように思う。
しかし、それでもなお、キリスト教には何かぶっ飛んだ、常識を超絶したものがあり、それは科学的あるいは仏教的な方法で培えるものを超えているように思う。
手島郁郎が、キリスト教における「愛」つまり「聖霊の愛」は、実質的な宇宙のある種のエネルギーや実体のようなものだということを述べているのだけれど、そのように思う。
たぶん、目には見えないけれど、何がしか一種のエネルギーやなんらかの質的なものなのだと思う。
とはいえ、そのなんらかの質のようなものは、肉眼や感覚的なものとは異なっているし、主に魂の部分で感じ取るもののように思う。
「永遠のいのち」やロゴスというものは、いったい何なのかというと、これはなんとも説明不可能なもののように思う。
しかし、たしかに魂に感じ取ることができるものであり、おそらく人は、これとの関係においてのみ、本当の意味で魂が満たされるのではないかと思う。
逆に言うと、いくら快楽や物質的な満足があっても、永遠のいのちとの関係がないと、人生に意味を感じることができないのではないかと思う。
人は、永遠との関係においてのみ、はじめて自分の人生に意味を見出し、意味を実感できるし、魂の渇きが潤され満たされるのだと思う。
宗教とは、なんらかの形で、この「永遠」と自分との関係を問い、結ぶものだと思う。
仏教やイスラムやユダヤやヒンズーも、それぞれの仕方で、何かしら、言葉の表現は違っても、物質的感覚的なものを超えたところの、永遠の何かとの関係や意味を模索し、与えてくれるガイダンスみたいなものだと思う。
しかし、キリスト教のユニークなところは、別に難しい神秘主義的な瞑想も要らず、戒律の遵守も要らず、ただキリストを信じることによって、永遠の命を得ることができるとするところなのだと思う。
そんな馬鹿なことがあるかと思うぐらい、簡単に永遠の命との関係を取り結ぶのがキリスト教なのだと思う。
もっとも、正確に言えば、信じた上で、実際にキリストのように歩むことや、キリストやキリストとともに歩む人びとと交わることがキリスト教においても大切なわけで、そこにおいて本当に永遠との交わりや意味が実感できるのだと思える。
信じることに力点を置いて説いたのがパウロで、信じたあとの歩みや交わりに重点を置いて説いたのがヨハネだと、一応おおまかには言えるかもしれない。
もっとも、前者にも後者の内容はあるし、後者にも前者が重視されていることは言うまでもない。
ただし、いずれにしろ、さしたる難しいこともなく、キリストを通じて、魂の渇きが満たされ、永遠との関係に入ることが聖書には明記されている。
ロゴスという永遠のいのちとの関係が、キリストを通じて、簡単に結ばれることができるし、歩みや交わりによって深められ、豊かに味わい、増し加えられて生きていくことができる。
それがキリスト教というものであり、聖書が説いていることなのだと思う。
ロゴスとは何かということは、そのような関係に入った生活の中で実際に触れて味わうことであり、抽象的に観念的に説明することは不可能なことなのだろう。
加えて重要なこととして、この世の中の自然な性向とは、ロゴスの論理は全く逆方向ということがあると思う。
ルカ六章の、いわゆる平地の説教の発想は、自然な人間とは全く真逆なものであり、どれほど自然な人間の発想や経験を積み重ねようと、ああいうロゴスの発想は出てこないと思う。
したがって、世の自然に逆らい、常にロゴスに触れることによって、はじめて人は世から自由になれるし、少しばかりでも世とは違う行動になれる可能性が生じてくるのだと思う。
それにしても、なんとロゴスとこの世と真っ向から食い違っていることか。
キリストに現れたロゴスに従って行こうと思った時、たしかにその人は何か別のものになるのだと思う。
人はなんらかの方法でロゴスとの関係を結ぼうとして生きているものなのだと思う。
ロゴスからかけ離れるほどに、魂の渇きは深まるのだと思う。
そして、それなりにロゴスとの関係、永遠のいのちとの関係の取り方は、さまざまな宗教にあるのだと思う。
しかし、最もたやすく、そして確実にロゴスとの関係を結んでくれるのはキリスト教なのではないかと思う。
他の宗教が、人の側からロゴスに向かい、さまざまな試行錯誤を経て、なんらかの形でロゴスに触れたものだとすると(そして仏教はその中で最も格調の高いものだと思うが)、
キリスト教というのは、ロゴスの側から人間に近づいてくれたものなのだと思う。
ロゴスの側から人間の世界に出向き、近づいてくれたのがキリストであるとすれば、ただそれを素直に受け入れるだけのことだと思う。
にしても、自分の人生を振り返ると、なんとロゴスに背いてきたことかと思う。
三十有余年の人生で、本当にロゴスからともすれば大きくそれたりはずれたりして、ロゴスに背を向け、逃げるように生きてきたと思う。
しかし、その自分のところにも、ロゴスは至り、働きかけ、摂取してくださった。
なんとも不思議なことだと思う。