雑感 キリスト教について

仏教というのは、基本的に、自業自得の教えである。

浄土教はその点、ちょっと違うのかもしれないが、基本的には自分の行為の結果を自分が受ける、自己責任の教えが仏教の根底にある。

一方、キリスト教というのは、ある意味、ぶっ飛んでいる。

つまり、キリストが他ならぬこの私の罪を背負って十字架上で死んで贖ってくださった、そして復活してくださった、そのことを信じれば、罪から救われる、ということである。

合理的に考える人には、仏教の方が理性としてはわかりやすい教えのような気がする。

キリストの十字架の贖いというのは、どれほど理屈や頭で考えても、とてもわかるものではない気がする。

たぶん、これは教えではなくて、何かの機縁による気づきや体験の問題なのかもしれない。

私に本当の意味で十字架の贖いがわかっているかどうかは甚だ心もとなく、たぶんわかってないのだと思うが、しかし、これを思うとなぜだか非常に心が軽くなるような、気が楽になるような気がする。

自分ではもはやどうにもならない、どうしようもない自分を、背負って贖ってくださる方がいる。
そう思うことは、はかりしれない慰めとなる。

仏教には仏教の良さがあり、その完璧な論理体系や道徳的な高潔さや智慧は比類がないが、ことキリストの十字架による贖いということは、キリスト教ならではのことのようにも思う。

この頃は、十字架の贖いでなければ救われんなぁと自分に関しては思う。
人がそうであるかどうかは私にはわからない。

ただし、こと自分に関しては、キリストの十字架の贖いなしには、もう自分はどうにもならないし、どうしようもない気がする。