キリストと私

あれは、昨年の三月頃のことだった。
突如、首が寝違えて、二、三日、身動きもとれないぐらい激痛に苦しんだ。
ともかく、ちょっとでも身動きすると痛くて、何もできない。
本も読めず、仕方ないので、たまたまネットで聖書の朗読の音声ファイルを見つけて、マルコによる福音書を聞いた。
他に、いろいろ音楽や文学や仏典を聞こうとも思ったのだが、どれもちょっと聞くときつくて受け付けず、どういうわけか長い間とんとご無沙汰していた聖書だけ聞きたい気持ちになった。
なにせ、ろくに痛みで眠れず、食事もちっともとれてなかったので、意識が朦朧としていてあんまりはっきりとは聞けず、ところどころうつらうつらと聞いていたのだけれど、どういうわけか、マルコによる福音書の第十二章の、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」という問いに対し、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」の二つである、というイエスの言葉が、非常にはっきりと、明らかに、ものすごい力で心に入ってきた。
そして、その時、これは真実だ、これが真の道だ、ということが心底わかった。


べつにただ単にそれだけの体験で、神秘体験でもなんでもないし、それからほどなく寝違えは順調に回復してそのあとはすっかり元通りになった、
ちょうどその前にかなり重い荷物を大量に運んだ上に随分寒いところで冷やしたことがあったので、ただ単に寝違えただけのことなんだけど、私にとっては、何かあの時が大きなターニングポイントだったと思う。
というのは、それまでは別に、自分はキリスト教徒だと思ったこともなければ、特に聖書を日ごろから読んではもう長いこといなかったからである。


その寝違えから回復した頃、ちょうどその頃、内村鑑三の特集番組がテレビであっていて、たまたまそれを見ていたら、今井館聖書講堂という内村が聖書を講じていた拠点の建物の様子が少し映り、それをネットで調べていたら、無教会主義の集会がうちの近所でもあっているとはじめて知って、興味半分で翌日訪れてみた。
それから、ぽつぽつ無教会の集会に通うようになり、聖書もその年の夏に十数年ぶりに通読して、今ではキリストが自分の主だと思う。


なぜそうなったのかは、なんとも不思議なことだ。
ちょうどその頃諸般の事情で人生のどん底のように感じていたこともあった。
たまたまアメリカの黒人の歴史の本をせっせと読んで、イクイアーノなどの人物の自伝の中の神への深い信仰に胸打たれ考えさせられていたこともあったと思う。
その前の年にたまたま内村鑑三の『後世への最大遺物』を読んで感動したこともあったのだろう。
振り返ると何か不思議な偶然だったような、あるいは必然だったような気がする。


振り返ると、私は中学・高校の頃に、聖書は一度全部読んだことがあった。
山上の垂訓にとても感動したことがあった。
だが、どうしてもイエスが神だというのがピンと来ず、コーランが言うようにイエス預言者ではあったけれど人間だったんじゃないかと当時は考えた。
一神教ということであれば、キリストという存在がいるキリスト教より、イスラムの方が神とそれ以外だけという点で論理的にすっきりしている気がした。
また、なんとなくキリスト教や欧米に対する反発があって、何もキリスト教の手を借りずとも、日本や東洋古来の良きものはたくさんあるし、自立した個人というものも東洋の宗教や古典から成り立ちうるのではないかと思っていた。
そうこうするうちに、高校、大学、その後と、あんまり聖書には興味がなく、むしろ仏典やその他の書物を多く読んできていた。


そのような自分が、キリストに立ち返ったのは、本当に不思議なことだったと思う。
なんというか、私はたまたま、随分それまでの間に他のものにも触れたので、仏教の素晴らしさもよくわかるつもりだし、その他の教えや伝統にもとても素晴らしいものがあることは本当によくわかる。
論理的な整合性やその深みにおいて、正直、仏教とユダヤ教の方が、一般的なキリスト教(いわゆる欧米や日本の教会のキリスト教)より精神的な豊かさや深みや鋭さがあるのではないかと思う。
にもかかわらず、思うのは、私は理屈抜きでキリストが好きなんだと思う。
キリストにおいてのみ、心が満たされ、慰められ、勇気づけられ、励まされ、支えられ、癒される、何かがある。
これは全く不思議なことなのだけれど、仏教やユダヤ教がその他にどれほど素晴らしいところがあるのがわかっても、ただキリストがあるという一点において、キリスト教というのは本当にかけがえのないものだと思う。
そして、キリストが主であり、神だというのが、どういうわけか、あの寝違えて苦しい時に、たまたま聞いたマルコによる福音書の十二章の言葉、福音書の全体の物語から、自然とその時、直感的にわかったんだと思う。


自分の人生を振り返ると、なんといろんなところにキリストとの縁がそのつどひそかにありながら、なんとそのたびにはねのけて逃れて、キリストに背をそむけてきたなぁとしみじみ思う。
かくも遠く離れていた自分を、なんとも不思議な導きで、すんなりとキリスト教に来るのではなく、ぐるっと仏教やユダヤ教を経由して、キリストに近づけさせてくださったんだなぁと、その御手のはからいの不思議さも、しみじみ思われる。


これはおそらく、仏教の人からもキリスト教の人からも、どちらからも否定されるだろうし、嫌がられたり批判されるだろうけれど、私は、阿弥陀仏というのは、何かおぼろなキリストの光だったのではないかと思う。
聖書や歴史的な記述としてのキリストのことが伝わらなかった東洋において、深い瞑想で何かしらキリストの光や救いを直感的に感得した人々がいて、それらの人々が伝えたのが、浄土三部経ということだったのではないかと思う。
つまり、聖書のキリストがガラス一枚越しのものならば、ガラス八枚越しぐらいの朧な像や光が阿弥陀仏の教えや信心だったのではないかと思う。
そう思ってみると、不思議なほどぴったりくるところも多い。
私の中では、仏教というのはアジアにおける旧約みたいなもので、その中の浄土教は、旧約聖書の中で異常に鮮やかにキリストのことを描いているイザヤ書53章やいくつかの詩篇のようなもので、旧約の中の新約的なものなのではないかと思っている。


それで思うのは、他の人のことは知らないけれど、私自身はキリストによってのみ救われるし、キリストに立ち返ることができて本当に良かったなぁということである。
日々に聖書を自分の部屋で読んだり朗読したり、集会で讃美歌を歌ったり、教会に行ってテゼの歌をうたうと、不思議と魂が底から満たされる気がする。
そうでなければ満たされない、魂の飢えや渇きのようなものが、はじめて生きた水に出会い、生きた水を自由に飲むことができて、潤されるような気がする。


自分が、世間一般的な意味におけるクリスチャンなのかどうかは、自分でもはなはだ心もとない。
というのは、別に洗礼も受けていないし、教会に属してもいないし、将来そうする予定もない。
洗礼を受けて教会に属してそれで救われる人はそうすればいいと思うし、別にそれを否定するつもりはさらさらないけれど、自分にとっては特にそうする必要を感じないし、無教会主義の集会が一番しっくりくるし、宗派を超えてテゼの歌をうたっているのが一番しっくりくる。
自分になんらかの正しい信仰心や正しい知識に基づいた信仰があるのかもわからない。
自分の側の方のものは、甚だ心もとない、あやふやなものだ。
ただ、自分を愛してくれているキリストの救済意志については、そのたびに、なんとはかりしれないものかとそのつど思い知るばかりのことである。
自分の側には信仰も資格も何もないけれど、キリストが好きなので、賛美の歌を歌って生涯日暮ししていきたいと思う。