「世界名作劇場に学ぶ聖書」

世界名作劇場に学ぶ聖書」


聖書という書物は、さまざまな角度から読んではじめて少しずつ意味がわかってくる書物である。
自分一人で読んでいるとさらっと読み流してしまっている箇所も、わかりやすく文学の中でとりあげられていてはじめてはっと気づかされ、深く味わわされる。
私にとっては、世界名作劇場経由ではじめて深く印象に残った聖書の言葉がいくつかある。
たぶんそれらは、そうした作品を読まなければ、気づかずに読み過してしまっていたと思う。


一つは、『牧場の少女カトリ』の中の一節である。
小さい頃にアニメを見ていたのだけれど、さっぱりストーリーを忘れていたので、原作を読んでみたら、その中にこんな箇所があった(たぶんアニメにはなかったと思う)。


カトリは貧しい家の子で、金持ちの家に奉公にあがり、せっせと働く毎日だったのだけれど、その中で何軒めかに仕えた主人は、非常に意地が悪く、カトリはろくな栄養もとれずにひたすら働かされるばかりだった。
そのうえ、自分が手に入れた布地を仕事の合間にせっせと縫って、やっとつくった織物を、ある日主人に盗まれてしまう。
主人が盗んだことはわかっているのだけれど、弱い立場の雇人であるから、ろくに文句も言えず、泣き寝入りするしかない状況になる。
悔しくて悲しくて、少しだけもらうことができた休暇の際に、実家にひさしぶりに帰って祖母に相談する。


「怒りを持ってはならず、相手を赦しなさいというキリストの教えに、どうしても怒りの心を取り去ることができない自分は反していないか、もし抗議するなら反することになるのではないか」、というカトリの質問に対し、
祖母は、「怒ったり憎んだりすることと不正に抗議することは全く別のことであり、愛することと正義を貫くことは全く矛盾しない、冷静にきちんと自分の立場と正当性を主張し、相手の誤りを正すことは聖書の教えに反しておらず、むしろ沿っている」ということをわかりやすく答えて、そのうえで、
「神様は私たちの頭の髪の毛一本一本まですべて数え上げるぐらいに、何もかもよく御存知です」
ということを言って勇気づけ、繰り返し聖書を読むように言って聖書を手渡す。
そのあと、カトリは冷静に機会をとらえて、主人に毅然と自分の織物のことを主張し、ちゃんとした償いをさせ、奉公の契約期間が終わるまできちんと働き、契約が終わってから毅然と立ち去っていった。


この髪の毛一本一本まで神は数えてくださって何もかも心にとめてくださっている、というのは、作品の中では当該箇所までは書いていないのだけれど、探すとルカによる福音書の十二章七節の箇所である。
そして、その聖書の箇所だと、そうしたことを述べた上で、だからこそ「恐れるな」と書いてある。
私は何度もこの箇所も含めて聖書を読んだことがあったのに、『牧場の少女カトリ』を読むまで、ほとんどこの箇所に注意を払うことなく、漫然と読んでいた。
この作品を読んで、はじめて深く心に残ったし、それからは、何かあるたびに、非常に勇気づけられる箇所になった。


また、もう一つは、『わたしのアンネット』(原作のタイトルは『雪のたから』)の中に出てくるヨハネ黙示録三章二十節で、そこには、キリストは常に人の心の戸口に立って扉を叩き続けている、ということが書かれている。
アンネットは、弟のダニーを崖から突き落として歩けなくさせたルシエンをどうしても許すことができず、ルシエンが自分の罪を悔いてせっかくダニーのために彫ったノアの箱舟の木彫りを破壊したり、ルシエンがコンクールのために彫っていた馬の木彫りを破壊したりと、自分も苦しみながらもなかなか許すことができず、憎しみをどうしても持ってしまうのだけれど、一緒に暮すクロードばあさん(祖母ではなくて親戚だけど母親代わり)が、この言葉をある時に教えてあげて、それから長い時間がかかって、ついにルシエンと和解することができた。
ヨハネ黙示録は何度か読んだことがあったはずなのに、さっぱりこの作品を読むまでこの箇所が記憶に残っておらず、この作品を読んではじめて、そういえば自分の心の戸口にもいつもキリストが立って叩いてくれていたのだなぁと感慨深く思えたことがあった。


また、この作品の中には、クロードばあさんが、「日が暮れたあとまで怒りの心を持っていてはいけません」という箇所もある。
これも聖書のエフェソの信徒への手紙の第四章二十六節である。
また、同じくクロードばあさんがルシエンに対し、ヨハネの第一の手紙の四章十八節の「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」という箇所を教えてあげる箇所がある。
その言葉をあとで思い出して、のちにルシエンは吹雪の中を英雄的に突き進んで、名医を連れて帰り、ダニーの足が治るきつくってあげることになる。
この二つの言葉も、どうもこの作品を読むまでは少しもきちんと心に響いて読んだことがなかった。
この作品のおかげで、これらの言葉は自分にとって特別な言葉になったように思う。


あと、具体的な言葉ではないのだけれど、『南の虹のルーシー』というオーストラリアに開拓移民する一家の物語があるのだけれど、そのお父さんは、一家の主らしく子どもたちにきちんと尊敬されていて、逞しくよく働き、食事の時はお父さんが主導して食前の祈りをきちんと捧げていて、子どもたちもよく聖書を読むように言っていたシーンがなんとなく心に印象深く残っていた。
しかし、原作を読み返してみると、このポップル父さんは、途中ではなかなか土地が手に入らず、怪我をして思うようにいかないことがあって一時期は随分落ち込んだり、けっこう子どもたちにうるさかったりと、必ずしも理想的な父さんというわけではない。
原作だと意外にだめなところもうざいところもあった。
その点は、私が小さい時に見たアニメの印象とは違っていたのだけれど、にもかかわらず、食前の祈りや聖書を子どもたちに覚えさせるところは、アニメも原作も変わらずにあった。
なんだかそういう家族の光景というのは、たぶん昔の西洋ではごくありふれた当たり前のことだったんだろうけれど、何かとてもなつかしいような、尊いもののように思われる。
そうした振る舞いや作法を通じて、お互いに欠点のある者同士でも、家族は結びついてお互いに支え合っていっていたのだろう。


あと、『トム・ソーヤーの冒険』では、トムもハックもいたずらばかりしていて、時には町の人たちから死んだと思われることもあるのだけれど、小さな教会に町中の人が集まりトムたちの死を悲しんで(いるところに奇跡の生還を果たして皆を感激させたり)、聖書の暗記をした子どもが教会で表彰されたり、町中が教会を中心にあたたかな共同体となっているところは、なんだかとてもなつかしいもののような気がする。
もっとも、たぶんアメリカでもそんな様子は十九世紀半ば頃からだんだん消滅していった光景で、原作者のマーク・トウェイン自身も、南北戦争後の工業化ですでに消えて行った風景だからこそ郷愁をこめて描いた様子だったのかもしれないけれど、たぶん近代の前にはごくありふれた景色だったのだろう。
日本も、江戸時代頃までは、寺や講を中心に、そうした共同体があったのだと思う。


あと、直接あんまり聖書が出てくるわけではないけれど、最も聖書っぽいのが『小公女』だと思う。
私が思うに、たぶんあの物語は、旧約聖書ヨブ記が元ネタなのではないかと思う。
それまでは全てに恵まれており、本人自身も清く正しく生きているのに、ある日突然すべての財産と家族を失い、悲嘆と苦境のどん底に落とされながら、毅然と苦難を耐えていき、最終的には再びすべてが回復されてハッピーエンド、というのは、まさに『小公女』の物語であり、『ヨブ記』の物語である。
人間、不条理な苦難や逆境に陥ると、ついつい不必要に自分が悪かったのかと思って卑屈になったり、あるいはひねくれて神も仏もないと思いねじけた心になってしまうものだけれど、ヨブやセーラは、自分の潔白や生き方に毅然と誇りを持ち、敢然と運命を耐えつつ、自分の尊厳やインテグリティというものを大切にし続けるところが、なんとも胸を打たれるし、非常にヘブライ的というか、聖書的な人間類型だと思う。
世界名作劇場のアニメ版だと、中西礼の作詞の歌の歌詞が本当に泣かせるものがあり、まさにそうしたヘブライ的な人間の尊厳やインテグリティを余すところなく歌いきっていて、本当に人生の歌だなぁとしみじみ思う。


あと、『愛少女ポリアンナ』の中にも、「聖書の中には八百回も「喜び」という言葉が出てくるの」というセリフがあり、実際に私はまだ数えたことがないけれど、たしかにrejoiceやgladという言葉を探すとそれぐらいありそうで、なんだか非常に大切なことをそのセリフに教えられた。
辛気くさく生きるのではなく、喜び楽しんで生きることを神は望んでいる。
そのことを、聖書を読みながらもともすれば忘れてしまっているけれど、ポリアンナのそのセリフではっきりと明瞭に教えられた気がする。
なんというか、セーラは旧約的で、ポリアンナは新約的な物語の気がするが、毅然と苦難を耐えることも、喜びをもって生きることも、どちらも大切なことで、聖書はそのどちらも本当は明白に説いていることなのだろう。


また、世界名作劇場ではわりと新しい作品に属する『レミゼラブル』は、もちろんヴィクトル・ユゴーの原作のとおり、ミリエル神父がジャンバルジャンに与えた無償の愛が、凍えていたジャンバルジャンの心を蘇らせ、その愛を今度は他の人々に向けてジャンバルジャンが生きていく姿を描いたものであり、キリストの愛がどのようなものか、最もわかりやすく伝えてくれているものだと思う。


というわけで、必ずしも児童文学の面白さや普遍性というのは、キリスト教に還元されるものではないし、また還元されるべきではないと思うけれど、児童文学を通して聖書やキリスト教に触れるということも、当然あって良い聖書の深い味わい方の一つではないかと思う。
カトリのおばあさんやアンネットのクロードばあさんのように、咄嗟の時にすぐさま聖書の叡智を伝えることができるようなお年寄りになりたいなぁと思う。
それが地の塩・世の光というものなのだろう。
すぐにはそうなれなくても、せめてもポップル父さんや、できればジャンバルジャンのように生きたいと思う。
そう思うようになったのは、やっぱり世界名作劇場と、それを通した聖書の影響なのだと思うし、ある意味、常に戸口に立って戸を叩き続けている方がいればこそなのだろうと思う。