ときどき思い出三つの人生 イクイアーノ・ダグラス・リンカーン

その人に会ったこともない、遠い時代の、遠い国の人の人生のことが、ふと時折思い出されて、自分にとってはとても大切な物語である場合は、おそらく私に限らず、多くの人にとってよくあることだと思う。


私の場合、何人かの人のことが、そうしたものである。


一つは、イクイアーノという人のことである。
18世紀の人で、自伝を書いている。
たまたま、映画『アメイジング・グレイス』に登場してきたので、興味を持ってその自伝を読んでみたのだけれど、なんといえばいいのか、とても心に残るものがあった。
イクイアーノは、アフリカのある村の王子に生まれたが、黒人奴隷狩りにあって、長い距離を運ばれた上、奴隷船に乗せられ、カリブ海の植民地に連れて行かれ、そこで筆舌に尽くしがたい困難を体験する。
また、イギリス軍艦付きの奴隷になり、多くの海戦の中で銃弾を運び、何度も九死に一生を得る体験をする。
しかし、その中で、地道に英語の会話の能力を身に着け、奴隷の仕事の合間に働いてお金を貯め、自由を買い戻すことを夢見る。
途中、ひどい主人からは貯めたお金を全部奪われることがあったり、たまたま遭遇した白人からリンチにあって重傷を負ったりと、散々な目にあっても、何度も再び立ち上がり、ついに自由を自ら稼いだお金で買い取り、再び自由人となった。
そして、イギリスに行き、数奇な運命を自伝に書いて出版し、その収益で黒人奴隷解放運動を起こし、クラークソンやウィルバーフォースやジョン・ニュートンらの協力者を得て、イギリスの黒人奴隷貿易廃止に大きな貢献をしたそうである。
自伝では、イクイアーノの深い信仰心についても語られ、聖書を自ら読み理解し、祈るたびに九死に一生を得て奇跡的に困難をかいくぐり、ついに自由を得たことが描かれている。


もう一つは、フレデリック・ダグラスという人のことである。
フレデリック・ダグラスは、十九世紀のアメリカの南部に黒人奴隷の子として生まれた。
自伝を書いているのだけれど、その自伝には、南部の奴隷制の非人間的な過酷な様子が赤裸々に描かれていて、ただただ唖然とする他はない。
はじめは親切だった白人の人が、時とともにだんだんと奴隷制の社会に染まって冷酷な白人になっていくところもなんともリアルに描かれていた。
また、しばしばいる意地悪な白人というものの悪魔のような所業にはただただ唖然とする他ない。
しかし、フレデリック・ダグラスは、生まれ持っての不撓不屈の根性から、決して飼いならされた奴隷になることはなく、文字もさまざまな困難を経て習い覚え、体力も抜群の力を持ち、時には白人の主人に対して果敢に暴力で立ち向かい、何度も死ぬ目に遭いながら、ついに北部への脱出を果たし、自由の身になる。
ずっと自由を夢見、いかなる困難に際しても挫けずに自由を希求し続けるその姿には、自伝を読みながら本当に胸打たれ胸が熱くなるものがあった。
フレデリック・ダグラスは、北部に行った後は、奴隷制廃止運動に身を投じ、熱烈な雄弁を振るって奴隷制廃止の世論を喚起し、リンカーンとも深い協力関係にあったそうである。


もう一人は、リンカーンである。
あまりにも有名な人物ではあるけれど、貧しい開拓者の子どもに生まれて丸太小屋で育ち、艱難辛苦を経て自立しようとするが、共同でビジネスを始めた他人がつくった膨大な借金を背負うことになり、若い間中借金の返済に苦しみ、測量技師と弁護士の資格を独力でとって働きづめに働いて、それから世の中を良くしようと思い政治家をめざし、何度も落選を重ね、決定的なイリノイ州の上院選でライヴァルに負けて落選し、しかしそれが幸いして急に共和党の大統領候補になり、まさかの大統領になり、南北戦争という未曽有の国難を乗り越え、奴隷制廃止までアメリカを導き、非業の死を遂げた生涯の物語は、何度思い起こしても、感無量な、何か大きな勇気をもらう物語があると思う。


もちろん、この三人に限らず、多くの胸を打つ生涯があると思う。
また、この三人の周辺の人々の物語、たとえばイクイアーノと密接なかかわりがあるウィルバーフォースやジョン・ニュートンの物語や、フレデリック・ダグラスと同時期のアボリショニストのハリエッド・タブマンやソジャーナ・トゥルースや、リンカーンと同時代の多くの人々、たとえばグラントやリーなども、何かしら思い出すたびに胸を打たれるものがある。
また、イクイアーノやフレデリック・ダグラスやリンカーンは随分聖書を読んだようだけれど、彼らの根底にあり、彼らを支えたのは、モーセ出エジプトイエス・キリストの物語や精神だったのだと思う。


この世の中は、あまりにも不条理で過酷で、何も変わらない気がするし、個人の意思や勇気など無力で、挫けてしまいそうに思えることも時にはあるけれど、これらの人々の生き方や物語を思うと、人間にははかりしれない力があるし、それを支え後押しするはかりしれないはからいがあるのだという気になってくる。


我々の時代もまた、多くの不条理や困難や課題を抱えている。
しかし、大切なことは、こうした過去の人々の逞しさを思い起こし、我々にできないことはないと思うことなのだと思う。