ジュリアス・レスター 「奴隷とは」

奴隷とは (1970年) (岩波新書)

奴隷とは (1970年) (岩波新書)


この本には、膨大な文献から、南北戦争以前のアメリカの奴隷制度を体験した人々の、さまざまな体験談や証言がまとめられている。


奴隷制がいかに、想像を絶するものだったか。
この本におさめられている生のさまざまな証言にまさる証拠はない。
鞭と暴力と、搾取と、欺瞞と。
アメリカが自由と平等の国だなんていうのは、奴隷制の時代には全くもって欺瞞そのものだったと思わざるを得ない。


この本では、人間を奴隷化するためには、二つの方法があり、ひとつは暴力による恐怖で、もうひとつは洗脳することだということが指摘される。
そして、実際、アメリカの黒人奴隷制においては、その両方が巧妙に使われていた。


にもかかわらず、黒人奴隷たちは、それらに耐えて、人間であり続けた。
鞭や暴力に耐えて、絶望せずに生き続けた。
キリスト教の教会において、欺瞞に満ちた説教を聞かされ、主人に忠実であることが神に仕えると教えられても、それらの説教を換骨奪胎して、旧約聖書イスラエルの人々に自らを投影したり、宗教をかえって自分たちの心のよりどころとしてとらえなおしていった。


奴隷制のもとで、いかに黒人の人々が人間の声をあげ、さまざまな形の抵抗を編み出したかもこの本には詳細に語られている。
サボタージュや逃走、音楽やダンス。
時には真っ向からの主人への言葉による抗議。
あるいは諷刺や、歌を通じた皮肉。
土曜日の夜は踊り明かして、人間としての喜びをなんとか確保すること。
過酷な条件のもとで、もちろん多くの絶望や自殺もあったが、それでもなおかつ多くの黒人の人々が耐えて生きのびたことは本当に驚嘆に値すると思う。


「奴隷であるとは、人間性が拒まれている条件のもとで、人間であるということだ。
かれらは、奴隷ではなかった。
かれらは、人間であった。
彼らの条件が、奴隷制度であったのだ。」
(17頁)


というこの本の中の言葉は、簡潔に本質を指摘した言葉だと思う。


また、この本には、リンカーンによる奴隷解放令を知った時の黒人の人々の喜びの証言もたくさん集められている。


と同時に、現実には何も生きていくための手段も財産も与えられず、一文なしで放り出された元奴隷の人々は、多くが再び奴隷の時とあまり変わらない農業労働者の立場での酷使と搾取に甘んじざるを得なかったことも語られる。


南部では、リンカーンの死後、急速にかつての南部の支配層が復権し、事実上の差別と「隔離」のための法律がつくられ、そのうえKKKが暴力と恐怖で黒人を支配しようとした。


制度としての奴隷制の廃止のあとも、黒人の本当の自由への道は、険しいものだった。
単なる形式的な自由だけでなく、自由の実質こそが大切なことが、黒人の奴隷解放前後の歴史を見ても、あらためて考えさせられた。


また、この本を読んでいて、あらためて驚いたのは、南部においても奴隷を所有していた白人は、白人人口の四分の一に過ぎなかったということである。
つまり、南部の白人の四分の三は奴隷を所有しておらず、奴隷制からは直接的な恩恵は受けていない人々だった。
また、奴隷所有者も大半はほんのわずかな奴隷を所有しているだけで、百人以上の奴隷を所有する人は南部全体でわずか三百人ぐらいだったという。
つまり、「風と共に去りぬ」に出てくるような、あたかも貴族のような豪華な暮しをしている南部の大地主というのは、ほんの一握りの存在だった。
にもかかわらず、彼らが政治的な実権を握っていたために、南部全体が戦争に巻き込まれた。
それは、この本にはそのことはあまり語られないけれど、黒人のみならず貧しい白人にとっても、本当は不幸な出来事だったと思われる。


そしてまた、この本では、奴隷制度のもとでは、多くの奴隷所有者が、奴隷の反乱を恐れ、不安や恐怖を抱いていたことも指摘している。
奴隷制というのは、結局、人を不幸にするシステムだったのだろう。


この本は、奴隷制がいかにひどいものだったかということと、そのような制度のもとでも耐えて生き続け、人間であり続けた人々がいたことの、貴重な記録と思う。


「今は名前を知られることのないひとびと。
わたしは、かれらを知ることがなかったが、かれらの子孫のひとりであることを誇りとしている。
かれらの生涯、その力強さ、その勇気に値するようになれることを、わたしは念願としている。」


という冒頭の著者の言葉は、読み終えたあとにもう一度読み直すと、本当に魂に響く。


多くの人に読んで欲しい、古典の一つに数えられるべき一冊と思う。
過去を忘れずにいることが、なんらかの歴史に対して後世の私たちができる最大のことだとしたら、まずはこの本などを読んで、過去の声に耳を傾けることから、何かが始まるのだと思う。