「アンクル・トムの小屋」を読んで

アンクル・トムの小屋 (世界文学の玉手箱)

アンクル・トムの小屋 (世界文学の玉手箱)


ストー夫人の『アンクル・トムの小屋』を、私は小学生の頃、途中まで読みかけて、それっきりになっていた。


最近、アメリカの黒人の歴史に興味を持っていろいろとその関連の本を読んでいたので、この作品も読みたいと思って、今度きちんと通読してみた。


私の記憶では、たぶん最初の十分の一か八分の一ぐらいしかその時は読んでいなかったと思う。
物語もほとんど忘れていた。


ただ、


「一人の人間の魂は、世界中のお金ぜんぶよりも尊い


という言葉は、読んでいて思い出した。


なので、たぶんそのあたりまでは読んだのだろう。
わりと最初の方に出てくる言葉である。


しかし、私はこの言葉が意味するところのことは、当時は本当にはわかっていなかったと思う。
そして、この作品の中で、一見陳腐なように見えるこの言葉が、いかに深く語られるかを、最初の方で読むのを中断していたために、ずっと知らなかった。


周知のとおり、この作品は南北戦争の少し前のあたりに書かれて、当時の黒人奴隷制の非人道性を広く認識させ、奴隷解放のための世論づくりに大きな影響を与えた作品である。


しかし、今回読んで思ったのは、この作品はただそれだけではない、「人間の魂の再生」を描いた作品だったということを、きちんと通読してはじめてわかった。


主人公のアンクル・トムの誠実な生き方。
そして、途中で一時的に仕えていた主人の娘のエヴァンジェリンという少女の、天使のような愛らしさ。
それらが、この作品を読むと、鮮烈な印象と感動を胸中に呼び起こす。


エヴァンジェリンは、結核によって幼くして死んでしまう。
アンクル・トムも、そのあと運命が暗転し、ひどい南部の農場に売られていって、最後はリンチにあって死んでしまう。

なので、ストーリー的にはこの作品はハッピーエンドとは程遠い。
病や暴力が人間を苦しめ、そこに何の外形的な奇跡は起こらない物語である。


しかし、エヴァンジェリンやアンクル・トムの死に方は、一種の奇跡であり、多くの人々の胸を打つし、読者である私も心揺さぶられるものがあった。
そこにはたしかに、奇跡と救いとでも呼ぶべきものが確かに存在していた。


アメリカで制度としては奴隷制度が廃止されてから百五十年ぐらい経つ。
しかし、それでもなお、この作品が過去のものとしてではなく、今なお読み継がれているのは、外形的な制度だけではない、人間の魂の問題に触れ、そして魂の再生について考察されているからだと思う。


ひどい農場主が酔いつぶれている時に、斧でその農場主を殺害して一緒に逃げようと、同じ黒人奴隷であるキャシーからアンクル・トムは要請される。
しかし、アンクル・トムは、こう言って断る。


「善というものは、決して悪からは生れません。」


自分たちが恒常的な暴力にさらされながら、しかもせっかく逃げるチャンスでありながら、なおこのように言うアンクル・トムの姿勢は、その百年後ぐらいのマハトマ・ガンジーキング牧師を髣髴とさせる。


このアンクル・トムの姿勢は決して臆病からではない。
あとで、キャシーたちが逃走した後、農場主から拷問されても決して口を割らずにアンクル・トムは死んでいく。
アンクル・トムは、自らがいかなる暴力も行わないのと同時に、他人の暴力にも決して屈しない勇気の持ち主だった。


そして、この作品の良いところは、決して単純な善悪二元論ではなく、きちんとどの登場人物についてもその背景と心情が描かれていることだと思う。
アンクル・トムやキャシーたちを虐待する農場主のレグリーも、決して幸せなわけではなく、若い時に酒を飲みはじめて身を持ち崩し始めた時、諌める母親を蹴飛ばして家を飛び出し、その後に母親が死んだという報告を聞いて、それからずっと忘れようとしているが心の痛みを抱えて生きている。
そのことをごまかすために日々に酒に溺れ、黒人たちに暴力を振るって鬱憤を晴らそうとし、ますます不安な心に駆られている。


レグリーの前のアンクル・トムの所有者だった、比較的マシな主人だったシン・クレアとその妻のマリーについても、豪奢な貴族のような暮らしをしながら、ともすれば退屈とむなしさを抱えて生きている姿が描写される。
シン・クレア自身はアンクル・トムの誠実さや、自分の娘のエヴァンジェリンの生き方と死によって自分を見つめ直し更生していくが、妻のマリーは最初から最後までどうしようもないわがままな人間で、しかも少しも幸せではなく、自分ほど不幸な人間はいないと本気で思っている。


奴隷制度に寄生している白人の主人たちも、悔い改めなければ本当の意味では幸せになれない。
そのことを作者のストー夫人は、自然な形でそれとなく描いている。
もっと言えば、彼らもまた、病や死や愛する者との別れから、決して免れることができないことを描いている。


そのうえで、このように言えば陳腐な表現になってしまうが、人間を幸せにすることは誠実な愛情だけであることを、具体的な描写や物語を通じて、この作品は描いている。


夫が自由の身になれるように働き続けるアンクル・トムの妻のクローは、結果としてはせっかくお金を貯めたにもかかわらず、アンクル・トムをやっと救える状態になったのに、その前にアンクル・トムは死んでしまう。


しかし、クローがそのように働いてくれていたことを知った死の床のアンクル・トムはどれほど幸せだったろうか。
また、最後までアンクル・トムがどれほど立派で、そしてクローたちに最後の言伝を頼んだということをジョージ・シェルビーから聞いたクローは、嘆きの淵の中でも、どれほどアンクル・トムの愛を感じたろうか。


私はクリスチャンではないけれど、ストー夫人が描くキリスト教は本当に美しく、深く、立派なものだと思った。
と同時に、当時のアメリカの現実がいかにキリスト教からかけ離れたもので、本当のキリスト教はごくごく稀なものだったかについても考えさせられた。
それは何も、アメリカとキリスト教だけでなく、さまざまな時代と社会においての、日本と仏教の関係も大なり小なり同じなのかもしれない。


あと、かなりこの作品の最後の方に出てくるので、たぶん小学生の時に読んだはずはないのだが、レグリーに仕える黒人奴隷で、レグリーの指示で他の黒人たちをいじめるサンボーとキンボーという登場人物については、どういうわけか名前が記憶にあった。
ひょっとしたら、このかなり最後のあたりまで昔読んだのか、それともぱらぱらっといろいろな箇所をその時に読んで記憶に残ったのか、よくわからない。
しかし、同じ黒人でありながら、主人に媚びて黒人奴隷たちをいじめるサンボーとキンボーは、本当に嫌な奴というかすかな記憶があった。
ところが、やっぱり、最後まできちんと読んでいなかったと自分は思った。
サンボーとキンボーは、最後はアンクル・トムの生き方と死に触れて、涙を流して悔い改める。
彼らもまた、奴隷制の犠牲者の一人であり、彼らがああならざるを得なかったそれまでのいろんな背景も、この作品では語られないが、きっとあったのだろう。


あと、この作品でもう一人、強い印象を与えるのは、黒人奴隷でありながら、変装し、逃走し、無事に逃げおおせるジョージ・ハリスである。
国の法律について言われた時に、ジョージ・ハリスははっきりと、「自分には国家などない、自分を守ってくれる法律も制度もないのだから」ということを答える。
ややニヒリスティックな、アナキストの風貌を持ち、追手と闘い、無事にカナダまで逃げるジョージ・ハリスは、アンクル・トムの生き方とは極めて対照的である。
そして、そのどちらが良いというわけではなく、両方ともに義があり、勇気があることを、ストー夫人はしっかりと描いている。
このアンクル・トムとジョージ・ハリスのキャラクターのコントラストは、キング牧師マルコムXのキャラのコントラストと若干似ているかもしれない。


こうしたことを考えれば、『アンクル・トムの小屋』は、過去の作品や児童向け作品という域を超えて、今なお折に触れて読み直されるべき名作だと思う。
おそらく、この中の登場人物の誰かを主人公にして語り直されても、とても面白い作品になると思う。
ジョージ・ハリスや、ジョージ・シェルビー、クロー、サンボーとキンボー、そしてレグリーやマリーたちの、それまでの物語や、その後の物語を想像すると、随分面白い物語が紡がれそうな気がする。