私の父方の祖父は若い時に七年間、赤紙が来て兵隊をしていたそうである。
これほど長期間の兵役は職業軍人以外はあんまりいなかったとも聞いた。
だが、祖父は一度も人を殺さなかったそうである。
「戦争で人を殺したことはあった?」と、夏休みに会った時に小さい頃の私が二、三度尋ねたことがあったが、なかったといつも即座に答えていた。
今朝、ふとその理由について考えてみた。
祖父が本当に戦場で人を殺していなかったというのは、間違いないと思う。
幼い孫の私に本当のことを語れなかった、というわけではなかったと思う。
一度だけ、戦地の思い出話を聞く中で、キュウリをたくさん籠に載せた中国人の商人が歩いているところを、長い行軍でのどが乾いて疲れ果てていて、一本だけ籠から祖父がとって食べたら、他の同じ部隊の日本兵がみんな手をのばして食べてしまうことになり、中国人のキュウリ売りはやれやれと手を上げて首を振ってあきらめて去っていったことがあった、ととても申し訳無さそうに話したことがあった。
その話を聞いて、キュウリでこれほど申し訳ないと思っている祖父が、人を殺したことがなかったというのは本当なんだなぁと、その時思った記憶もある。
では、なぜ祖父は戦場で人を殺さなかったのか。
ひとつは、祖父は仕事の関係でたまたま自動車免許を持っており、当時は自動車免許を持っている人が少なかったので、補給部隊と言えばいいのか、物資や食料を運ぶ自動車部隊に所属していたそうである。
なので、それほど最前線にずっといたわけではなかったことも大きかったのかもしれない。
だが、もう一つは、意図的にそうしていたようである。
祖父が昔語ってくれたことだが、戦場で銃を撃つように命じられた時も、撃ったふりをして実際は発砲せずにいたそうである。
その理由を聞くと、銃は一度撃つと分解して掃除をしなければならず、それがめんどくさかった、しかし撃ってないことがもしばれたら大変なことになるので、銃を撃つと薬莢がそこらへんに散乱するのだけれど、他の人が撃った後の薬莢を拾っておいた、と言っていた。
そういう話を聞くと、ときどきは銃弾が飛び交う前線にいたようである。
一度、腕に銃弾を受けて大怪我をし、七年間の途中で一ヶ月だけ日本に帰国したことがあったそうで、雨が降ると傷跡が痛むと言ってたのを聞いた記憶もあるので、銃弾が飛び交う現場にもいたことがあったようである。
では、なぜ祖父は銃を撃たないようにしていて、一人も長い戦地での生活の間に人を殺さなかったのか。
祖父はただの庶民で、何かすごい宗教や哲学があったというわけではぜんぜんなく、むしろ気性が荒いわがままなところもあった人物なので、それほど平和主義とか非暴力主義といったものを宗教や哲学として本を読んで身につけていたということはなかったように思う。
運動神経は良かったようで、わりと大きな軍隊の銃剣の試合の大会(実際の銃剣の変わりに木製の模擬銃剣で試合するものだったらしい)で準優勝になったことがあったそうで、優勝したのは剣道の達人の警察官の人だったそうだから、大快挙ということで上官たちからも随分褒められたそうである。今でもその時の写真が残っている。
なので、むしろ勇敢な兵隊の部類だったようなのだが、なぜ人を殺さなかったのか。
結局、生前きちんと聞きそびれたので、祖父が自分で言っていたとおり銃の手入れがめんどくさかったのだろう、とあまり深く考えずに今まで思っていた。
人間の頭というのは不思議なもので、今朝、夢うつつの合間にふと上記のことを思い出して、つらつら考えていたら、はっと思い当たることがあった。
おそらく、こういうことではないか思う。
祖父の父、つまり私の曽祖父は、祖父が小さい時に亡くなった。
中程度の地主だったそうだが、曽祖父が早くに亡くなったことと、曽祖父の兄が東京の大学に行ったのでその仕送りが大変だったこと、当時水害があって大きな損失を被ったこと、祖父の兄が遊郭にのめり込んで家財を注ぎ込んだことなどが重なって、みるみる家産を失って、祖父はろくに農業中学ぐらいまでしか行くことができず、すぐに就職し、赤紙が来て長々と兵隊に行くはめになったそうである。
なので、祖父は、父親さえ生きてくれていたら、という思いが、全然語ったことはなかったけれど、とても強かったのではないかと思う。
また、ぜんぜん詳しい話は伝わっていないのだけれど、祖父の母、つまり私にとっての曾祖母は、曽祖父と初婚ではなく、二度目の結婚だったそうである。
祖母自身も後妻だったのか、祖父の兄というのは母親が違っていたと聞いたような気もする。
祖母が最初の結婚において離婚だったのか、最初の夫に死に別れたのだったか、ちょっと今となってはよくわからないのだけれど、ともかく曾祖母は一度結婚したことがあり、そのうえで二度目の結婚で曽祖父と結婚していたそうである。
仮に、最初の夫も早くに死なれていたとすれば、曾祖母は若い時に二度も夫に先立たたれていたことになる。
その嘆きはいかばかりだったろうかと思う。
おそらく、祖父は、自分自身が父親を早くに亡くした悲しみをよく知っており、また曾祖母の夫に先立たれる悲しみや苦労をよく知っていたので、戦地でも誰かにそういう悲しみや苦労をかけたくない、かけさせるのは忍びない、と強く思っていたのだろうと、今朝ふと思われた。
これは私の推測に過ぎないし、今となってはとっくの昔に亡くなった祖父に確かめる術もなく、当時のことを覚えている人もいないのだけれど、おそらく間違いないように思われた。
ちなみに、なぜ今朝急に夢うつつにこんなことを考えていたかというと、昨日、たまたま、以前からよく知っているスリランカの僧侶の方から仏教についてのお話を聞く機会があり、仏教では「アヒンサー」(不殺生)ということを大切にしていた、生命に被害を与えないという意味で、アヒンサーの生き方をしていると自分も守られる、というお話を聞いたからだと思う。
祖父は無事に戦地から生きて帰って長生きできたし、祖母も長生きだった。
祖母は田舎に住んでいたので都市部と異なり空襲を受けることもなかったので、戦争の時代もおおむね平和だったようで、ただ夫である祖父の帰りをずっと待っていたようである。
ただ、祖母も、一度、田んぼの畦道を歩いていたら、向こうからアメリカの戦闘機が飛んできて、操縦席の金髪の青い目の青年と目があった、と、戦争中の思い出としてのどかに話してくれたことがあった。
しかし、これは今考えればぜんぜんのどかなことではなく、おそらく機銃掃射をしようとして至近距離に接近してきていたのではないかと思う。
あまりにのどかで無防備な祖母の様子に機銃掃射を思いとどまってその米兵は発砲せず去っていったということだったのではないかと思う。
ただ、ひょっとしたら、その背後には、祖父が誰も戦場で殺さずにいた、そのアヒンサーの功徳が、どこかで働いていたのではないかと、ふと思ったりもした。
祖父と、その名前も知らない米兵の人は、ただの名も無い庶民に過ぎないけれど、ほとんど自由な選択の余地のない当時の戦争の時代にあって、わずかながら自分が選択できる範囲で、人を殺さない選択をしたことを、私はとても尊いことだったように思うし、忘れないでいたいと思う。