ユダヤ教のラビの方との質疑応答 メモ

今日は、ユダヤ教のラビの方の講話を聴きに行ってきた。
レビ記十九章十八節の「自分自身のように隣人を愛しなさい」と訳されている、キリスト教においてもイエスが引用したために重要視されている箇所について、前後のレビ記十九章のテキストの精緻な説き明かしをしたうえで、ヘブライ語原文から精緻に検討していて、目からウロコだった。


そのラビの方によれば、この箇所のヘブライ語の原文には、通常ヘブライ語で日本語の「を」と同じ役割を果たす目的語の前につく前置詞の「エット」が存在しておらず、その代わりにラメッドという記号が入っているために、「隣人を愛しなさい」と訳すのは不正確だそうである。
また、命令文ではないので、直訳すれば、「隣人、愛するでしょう」みたいな形で、隣人は直接的な目的語ではないという。
その前後のテキストを詳細に解き明かせば、ここで言われているのは、憎しみを心の中に持ち続けたりせず、問題にきちんと向き合って相手を率直に諌めたりし、世代を超えて恨みを持ち続けたりしないような行為を通じて、そうしたことをしていくことが、結果として直接的ではないとしても、間接的に隣人を自分のように大切にするような行為につながっていく、ということだそうである。


また、レビ記十九章の前後の部分の説き明かしは、長くなるので詳細は書けないけれど、それぞれ二連ずつまとまりになっている文章が、独自の構造になってひとつの意味を中心にまとまっており、それらの意味がはじめて目からウロコでわかって、とても感銘を受けた。

私も質疑応答の時に、せっかくの機会だったので、以下の三つの質問をさせてもらった。

1、レビ記十九章十八節の意味は、ヘブライ語原文を踏まえて言えば、「自分がして欲しくないことを人もしないようにしなさい」(己の欲せざるをことを人にも施すことなかれ)と同じ意味だと理解して良いか?


2、レビ記十九章十八節や申命記六章四節が、イエスにおいては最も大切な戒めとされているが、ユダヤの伝統でもそうだと理解して良いか?他にも、人生において最も大切なことはあるか?


3、申命記六章四節の、心を尽くし思いを尽くし力を尽してあなたの神を愛しなさい、という箇所があるけれど、具体的にどうすればそうしたことになるのか、ユダヤの伝統でどう解釈されてきたのか?


1については、”YES”とのことで、そのうえで以下のような答えだった。
あらゆる宗教に共通するゴールデン・ルールをある学者が探究し検討した本があるが、そこにおいても、要するにそのことが言われていた。
キリスト教においては、「あなたがして欲しいことを人にもしなさい」で、ユダヤ教のラビの伝統では「あなたがして欲しくないことを人にもしないようにしなさい」という形で、若干の違いがある。
私自身は、後者の方が良いと思う、というのは、他の人が何を願っているかはよくわからないからである。
しかし、レビ記十九章十八節に即して言えば、結果として隣人を自分のように愛していることになるであろう環境の整備には、積極的なものも消極的なものも両方とも含まれるだろうから、自分がして欲しくないことをせず、またもしわかれば自分がして欲しいように相手が望むことを察してしあげることが良いだろう。


2については、以下のような答えだった。
ラビの伝統では、最も重要なトーラーとして、それらの箇所と並んで、創世記五章一節が重要として語られる。
私自身も、その箇所の方が良いと思う。
というのは、「隣人」という狭い範囲ではなくて、すべての人類、すべての人種が、神の似姿として、尊敬や畏敬の対象であり、大切にすべき対象だとここではされているからである。
ちなみに、イスラムにおいても、この箇所を重視し、同様の精神を重視している。
この創世記五章一節を敷衍して、ユダヤの伝統では、一人の人をもし殺すならばそれは世界を壊すことに等しく、一人の人の命を救うことは全世界を救うに等しいということが言われている。
イスラムでも同様の格言がある。

三つめの質問に対しては、以下のような答えだった。
まず、この申命記六章四節の箇所では、「エット」の助詞が入るので、レビ記十九章十八節とは異なり、神を愛するという文章は、神は直接的な目的語となっている。
しかし、ここもレビ記十九章十八節と同様、命令文でよく訳されているけれども、ヘブライ語原文は命令文ではない。
英語で訳すならば、”you shall”のような訳の方が良くて、神とコンタクトがあれば、当然あなたはそうするでしょう、といったニュアンスである。
したがって、あなたは神を心を尽くし〜て愛するでしょうね、といった意味になる。
さて、ここで「心」と訳されるヘブライ語は、普通の語形だと「レブ」だが、この原文はその語が二つ重なったような、非常に珍しい語形で現れている。
なので、ラビの伝統においては、二つの心をもって、と解釈した。
つまり、人間の善い心も、悪い心も、どちらもあるがままに神に出して、そのままにさらけだして、神を愛すること、それが心を尽くし神を愛するということだと。
人間の悪い心とされている性衝動なども、実はそれほど悪くないものかもしれませんし、ユダヤの昔話では、悪い心をすべて封じ込めて善い心だけの世界にしたら、世界が全く機能しなくなった、という冗談のような説話がある。
あるがままに善い心も悪い心も両方をもって神に向かっていくのが、「心を尽くし」の意味である。
次に、「思いを尽くし」あるいは「精神を尽くし」と訳される箇所は、「ネフェッシュ」というヘブライ語だが、この言葉は命や息や生きる力や人生などいろんな意味がある。
なので、精神や思いを尽くして、というよりも、自分の命や人生を神に投げ出し、サレンダーし、神の思いに従って生きる、ということがこの箇所の意味である。
三つめに、「力を尽くし」ですが、この「力」は「お金」のことだとユダヤのラビの伝統では解釈されてきた。
急にお金が出てきて驚く人もいるかもしれないし、そんな卑近なことが心や命の次に出てきていいのかという問いもラビの伝統の中で出されたことがあったが、人によってはお金よりも命が大切だが、人によっては命よりもお金が大切という人も多いので、と解説されてきた。
自分の持っているお金や財力を尽して、神のために役立てる、というのがこの箇所の意味である。
理論的なことに関しては、この箇所については以上のように解説できる。


どれも、なるほどーっと思った。


他にも、他の人の質問に対する答えもいろいろ面白かった。


ある人が、隣人を自分のように愛するために、何か具体的な方法を教えてくれる本はあるか?と尋ねたのに対し、
何百冊もあると思う。特にアメリカのクリスチャンの本にはたくさんあるだろう。
その中に、ある青年が、イスラエルにボランティアにいって数年を過した。
帰ってから、父親に、そこで何を学んだか?と問われて、「大切なことは、自分のように隣人を愛することだとわかった」と答えた。
そんなこと、行く前からわかっていただろう、と父親に言われて、「いや、隣人を愛するためには、まず自分自身を本当に大切に愛さないといけないことがわかった」と答えた。
という話が載っている、そんな本の中の一冊があった。
という話をしていて、けっこう面白かった。
また、本を読むのも大切だが、ユダヤのラビの格言に、「まず先生と友人を探しなさい」という言葉がある、本を読むよりも、いろんな問いを先生や友人を見つけてぶつけて、生きた問答をすることが何よりも大切である、ということも答えておられて、なるほどーっと思った。


また、他の人が、イエスは「汝の敵を愛しなさい」と言っているが、これは旧約聖書にもあるのか?と尋ねていた。
それに対して、キリスト教の旧約、つまりヘブライ聖書にはそうした箇所はない。
しかし、あなたの敵を憎みなさい、という箇所も、ヘブライ聖書には存在しない。
箴言二十五章二十二節に、憎んでいる者が餓えていたらパンを与え水を与えなさいという箇所がある。
また、アヴォートの中に、自分の感情をコントロールし敵さえも友にする人が最高のヒーローだという箇所がある。
という答えで、なるほどーっと思った。


とても興味深い御話を聴くことができて良かった。