神に仕える・賛美するとは

ユダヤ教では毎朝唱えるシェマーの祈りの中で、聖書の申命記の十一章の十三節の箇所があり、


もし神に「魂を尽くして仕えるならば」、多くの恵みが与えられる、ということが述べられる箇所がある。


その箇所を読んでいて、「神に仕える」とはどういうことだろうか、と、しばし考えこんだ。


神に仕えるとは、どういうことだろう。


真の神を愛し、その求めるところを行うこと。
神を信じ、その教えを基準として生きること。神の言葉を信じること。貧しい人々の側に立ち、それらの人々の友となること。神に感謝し、賛美すること。
などが、ネットで検索してみたら、書かれてあった。


なかなか神に仕えることを考えるのが難しいので、まず人間の主君に仕えることを考えてみると、こう言えると思う。
主君の心を察し、その意図や意志の実現に努め、主君の名折れにならぬように、その恥を雪ぎ、その名の上がるように努め、主君の敵を撃滅し、主君の善き事績を記し、称揚し、主君に誤りがあれば諌め、ひたすら忠義を尽くし、他の人間に裏切ることなど決してせず、勇敢に主君のために闘い、ひたすら主君の利益のために貢献してこそ、主君に仕えていると言えるのだろう。


とすれば、神に仕えるというのも、大体そのようなことがあてはまるのかもしれない。
実際、申命記などの聖書に繰り返されるのは、他の神に決してよそみすることなく、唯一の主に絶対の帰依と忠実さを捧げることである。
内村鑑三が武士道とキリスト教の融合を唱えていたけれど、たしかに似たところはあるかもしれない。
忠臣は二君に仕えず。
唯一の主に絶対の忠義を尽くすのが、主に仕えるということなのかもしれない。


また、主の意志や意図が何かといえば、それは聖書を読み解くことでわかるということなのだろう。
律法に述べられるように、人間を神の似姿として尊び、隣人を自分のように愛し、偽りや不義を憎み、正義や真実を愛し尊び、寄留者や貧しい人に親切にし、自分自身も尊い高潔な人間になるように生きることが、神が望んでいることだというのが、聖書からは言えることなのだと思う。


と同時に、神を賛美することも、神に仕えることとして重要のようである。


神を賛美するとはどういうことなのだろう。
ユダヤ教徒が日々に読誦する詩篇の百章や百四十五章などは、神への賛美が強調される。


神を賛美するとは、どういうことなのか。
ネットで検索してみると、神を信じること、神を称揚すること、神を積極的に肯定し、賛成すること、神を信じること、神のなさっていることに賛成すること、神に感謝すること、などなど書いてあった。


被造物として、創造者に感謝し、この宇宙の美しさを褒め称えることが、神を賛美するということなのだろう。
また、神が行うことに感嘆し、賛同し、その善さを讃え、人々に告げ知らせることが賛美ということなのだろう。
神の愛や勇気や意志の強さなどの美徳を讃え、その実現を助けることも、賛美ということなのだろう。


人が人を誉めることを考えれば、やはりその人の良いところを知り、その美徳や業績や行為や心の善さを誉めるということなのだと思う。
とすれば、人が神を賛美することも、それと相通じることがあり、神の美徳や業績や行いや心の善さを知り、褒めることが大切なのかもしれない。


とすると、神に仕えるにしろ、神を賛美するにしろ、そのどちらであれ、聖書をよく読み、神の意図や働きや美徳を知ることが大事なのかもしれない。
また、聖書のみでなく、自然を観察し、その美や善を知ることも大切なのだろう。


神を賛美するためにはどうすればいいか。
神に仕えるためにどうすればいいか。


この問いは、おそらく一生問い続けるべき事柄なのかもしれない。
そして、この問いがあれば、狭い自己から解き放たれ、何か広いところに導かれていくような気もする。