内村鑑三 「贖罪の弁証」

内村鑑三 『贖罪の弁証』


「イエス彼等を召(よ)びていいけるは、異邦の領主はその民を主(つかさど)り大なる者は彼等の上に権を操(と)る、然れど汝等の中にては然かすべからず、汝等の中にては大ならんと欲する者は汝等の給仕たるべし、又汝等の中首たらんと欲する者は汝等の僕たるべし、此の如く人の子の来るも人に奉仕せられんためにあらず、反て人に仕へ、多くの人に代りて生命を与へ、その贖(あがない)とならんためなり。」(マタイ伝二十章二十五―二十八節)
※(新共同訳):そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」


今や贖罪を信じないキリスト信者が多くある。彼らは公然と「我は贖罪を信ぜず」と言いて憚らない。彼等はあたかも贖罪は一の迷信であるかのように思うている。彼らはキリストを信じ聖書を尊ぶといえども、その中に幾回となく記してある贖罪はこれを排斥するも何のさしつかえも無いことのように思うている。
余輩といえどももちろんある種の贖罪を信じない。普通、宣教師と教会とによって唱えらるる贖罪を信じない。すなわち、キリストはすでに我らのために死に給いたれば、我らは今や窃(ぬす)んでも殺して欺いても、その他いかなる悪事を為しても救わるるに定っておると言うがごとき贖罪を信じない。しかして、これに類する贖罪説が実際に唱えられつつあるは事実である。「このゆえにイエス・キリストにある者は罪せらるることなし」とのパウロの言を楯として、多くの明白なる悪事が憚からずしてキリスト信者(教会信者)によって行われつつあるは掩うべからざる事実である。
しかして、もしかかる贖罪説がキリスト教の根本的教義であるとならば、キリスト教は誠に不義不徳を教うる者であって、これは我らの全身全力を尽して排斥撲滅すべきものである。


しかしながら、贖罪とはそういうことではない。これは深い道義のその中に存することであって、これあるがゆえにキリストの福音は無上の価値を有するのである。
ここに掲げし聖書の言葉が最も明らかに贖罪の何たるかを示す者であると思う。
「人の子の来るも人に奉仕せられんためにあらず、反(かえっ)て人に仕へ、多くの人に代りて生命を与へ、その贖とならんためなり。」
贖罪とは人に仕うることである。人のために善を為すことである。他人のために瘁尽することである。すなわち、自己を他人にあたうることである。兄弟の負債に苦しむを見て、これを己れの関せざることとして見ることなく、自から進んで彼を負債の束縛より救わんとすることである。
しかして、罪は最大の負債であれば、神はキリストにありて、人類のこの負債を除かんと為し給うたのである。神にしてもしこの心を懐き給わざらんか、彼は神と称するに足りない者である。この心はこれ我ら罪に沈める人類にすら多少存するものである。まして神においてをやである。神、もし神たらば、彼は贖主(あがないぬし)でなければならない。彼は進んで人の負債を己れに負い、これをその苦痛より免かれしめんと為し給う者であるに相違ない。
しかして、キリストは神のこの心を体して世に降り給うた者であって、我らは彼によって、神は実に我らの理想に違わず、我らの贖主であることを知るのである。


贖罪に関する誤謬は、多くはこれを贖わるることと解して、贖うことと解せざるより起るのであると思う。すなわち、贖罪を受動的に解して発動的に解せざるより起るのであると思う。
贖罪は強き者が弱き者のために、富める者が貧しき者のために取る行動である。これは神が人のために為し給いしことであって、人が神に要求し、己れが権利として享受すべきものではない。贖罪は神にありては美徳である。人にありては耻辱である。人が罪を犯したればこそ、神に贖罪の必要が生じて来たのである。愛の神の行為たる贖罪を、人に属する当然の権利と見做すがゆえに、この貴き教義より来るすべての弊害が生ずるのである。


しかして、贖罪を発動的に解して、我ら神に罪を贖われし者もまた、贖わるるやいなや、直ちに自ずから贖う者となるのである。我らは神のみを贖主としておいてはならない。我ら自身もまた進んで贖主とならなければならない。
すなわち、我らもまた我らよりもより弱き、より貧しき者のために、その贖主とならなければならない。すなわち、彼らに代りて我らの生命を与え、その贖とならなければならない。贖罪を単に神のこととのみ解するがゆえに、我らは彼の恩恵に慣れ、これを濫用し、かえってさらに彼の怒を我らの身に招くに至るのである。
実に、贖罪はひとり神のことではない、また人のことである。より強き者がより弱き者に対する時に、神と人との別なく何人も贖主たるべきである。すなわち、他の弱きを助け、貧しきを補い、暗きを照らし、悪しきを正し、罪を贖うべきである。
しかるに、自ずからもまた贖主とならんと欲せずして、ただ神に贖わるるをもって足れりと為すがゆえに、贖罪の恩恵は益を為さずしてかえって害を為し、その教義は人の嘲笑を招くに至るのである。
「主は我らのために生命を捐(す)て給へり、これによりて愛といふことを知りたり、我等もまた兄弟のために生命を捐つべきなり」(ヨハネ第一書 三章十六節)
贖罪をかくのごとくに解して、その中にキリストの福音のすべてが含まれてあることを覚るのである。


贖罪誤解の第二の原因は、これを消極的に見て、積極的に見ないことである。贖罪とは単に罪を消すと言うことではない。罪は無代価で贖われるものではない。これを贖うに代価が要る。「汝らは価をもって買われたる者なり」とパウロは言うた(コリント後書 六章二十節)。しかして、その価とは、もちろん朽ちるべき金や銀ではない。罪の反対なる徳である。義である。愛である。罪は義と愛とをもってしてのみ贖わるるものである。ゆえに、買うと言い、贖うと言うは、単に引き出すと言うことではない。これは買い取ると言うことである。貴き代価を払うて買い取ることである。苦しき労働をもって救い出すことである。愛をもって憎しみに打ち勝つことである。恩をもって恨みに報ゆることである。義を行いて罪を打ち消すことである。
しかして、金銭の価値を知らざる者は、物の真価を知らざるがごとく、労働の辛苦を知らざる者は、事業の貴尊を知らざるがごとく、愛の苦痛と辛惨とを知らない者は、贖罪の恩と恵とを知らない。世の贖罪を嘲ける者は、多くは自ずからその責に当ったことのない者である。すなわち、贖罪を単に教義と見て、これを書斎にありて考究し、高壇に立ちて弁ずる者である。
しかれども、贖罪は空事(からごと)ではない。単に教義ではない。確かなる事実である。痛き経験である。義の敢行である。愛の実現である。罪は容易に消すことのできるものではない。贖罪はこの世において行わるる難中の難事である。もし、これを贖罪と称せずして、勇行敢為と称するならば憚からずして「我は贖罪を信ぜず」と言い得る者は一人もないのである。しかしながら、贖罪は仁者の勇行敢為にほかならないのである。贖罪をこれを行うために必要なる善行より見て、その美とその徳とが認めらるるのである。


贖罪の積極的方面を示すにあたって最も有益なる証明は、イザヤ書第六章によって供せらるるのである。
「ここにかのセラピム(天使)の一人、鉗(ひばし)をもて祭壇の上より取りたる熱炭を手に携へて我(イザヤ)に飛び来り、我が口に触れて言いけるは、視よ、この火、汝の唇に触れたれば、汝の悪はすでに消え、汝の罪は贖われたりと」。
ここに火といい炭というのは、比喩的に解すべきであることは言うまでもない。ただし注意すべきは神の言葉(真理)の預言者に臨みてその悪は消え、その罪の贖われしことである。すなわち、贖罪のことたる真理実現の結果たることを示すことである。罪を贖うというも、罪を駆逐(おいや)るというも、同じことである。光明臨んで暗黒去り、正義現われて罪悪消ゆ。贖罪は、キリストの愛の行為の必然的結果にほかならない。これを彼の感化と称するも少しも差閊(さしつかえ)はないのである。
ただ「感化」の文字たる、普通、外面の感化をいうに止まって、内部の変化改造を示さざるがゆえに、我らは贖罪はキリストの道徳的感化なりと称して、甚だ慊(あきたら)なく感ずるのである。しかしながら、贖罪の道徳と離れたるある不可解の秘密でないことは明白である。贖罪は、明白なる道徳的行為の明白なる結果である。真と美と善との行わるるところにはいずこにも贖罪は行わるるのである。善行はすべて贖罪的特性を具うるものである。キリストは人類の贖主であるというと、彼は神の子、理想の人であると言うと、その根底において何の異なるところはないのである。彼は最上の善を行い給いしがゆえに、完全に人類の罪を贖い給うたのである。


かかるがゆえに、この意味よりしても、また我ら各自もまた我らに賦与せられし力量相応に、世の贖主となることができるのである。我らがキリストに贖われしだけ、それだけまた世の罪を贖うことができるのである。我らが誠心をもって福音を伝うる時、我らは世の罪を贖いつつあるのである。我らが心を尽し意(こころばせ)を尽して主の名によりて人に善を為しつつある時に、我らは彼らの贖主たるの職務を果しつつあるのである。我らが光明をもって世に臨む時、正義をもって世と闘う時、愛をもって世を愛する時、我らはその罪を贖いつつあるのである。
贖罪はかくのごときものであれば、我らはこれを唱えて決して耻とすべきでない。我らは「我は贖罪を信ぜず」と公言して、これを否定せんとするよりは、むしろその真義を探り、これを信じ、これを行い、もって自己と他(ひと)との救済(すくい)を計るべきである。畢竟するに贖罪は犠牲である。愛の行為である。自己を他に与うることである。他の罪を贖わざるものは神にして神でない。キリスト者(クリスチャン)にしてキリスト者でない。我らは各自キリストに罪を贖わるると同時にまた他(ひと)の罪を贖うべきである。すなわち、キリストと共に世の贖主たるべきである。
(『聖書之研究』一九一〇年(明治四十三年)七月)