人生とは何なのだろう。
これは、おそらく、答えのない問いなのだと思う。
そして、答えの数も、人の数ほどあるのだろう。
そのうえで、暫定的に、自分なりの定義を見つけるならば、私の場合はどう答えようか。
おそらくは、そうであって欲しいものは、
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」
(創世記 五十章 二十節)
とあるように、はじめは悪のように思われたこと、あるいは悪だったことが、いつの間にか、時が経つうちに、善いものに変わっていくこと、善に転じていくことだと思う。
人生とは、そのような道筋、あるいはそのような道筋であってほしい、と思う。
人生とは、自分の中にある悪が、少しでも善に転じていった時に、あるいは人生における悪が、善に転じていった時に、はじめて意味があると、意味があったと、感じられるものではないかと思う。
そして、それは、おそらく、それにかなりの時がかかる場合もあるのだと思う。
善と思っていたことが、悪や悲しみや苦しみに転じることも、人生には多々あるかもしれない。
しかし、その逆に、苦しみや悲しみや悪と思っていたことが、善やよろこびに転じていくこともあるだろう。
聖書の創世記の中で、ヤコブは、かなり長い時がかかって、本当に偉大な人物になったようである。
ヤコブの息子たちも、そうであった。
それはおそらくは、ヤコブが、「神はそれを良きに変らせて」くださるという存在だという事を、直感的に感じとり、心の底でいつも信じていたからではないかと思う。
ヤコブの子のヨセフも、そうだったのではないかと思う。
「神はそれを良きに変らせて」、ということを信じ、仰ぐかどうかが、人生におけるさまざまな物事の転じ方の違いにつながっていくような気がする。
これは別にユダヤ教やキリスト教に限られることではなく、浄土真宗においても、「転」ということはよく強調される。
如来の御手のはからいの中で、煩悩や悪が転じられ、本当に仏法が味わい聴ける身になっていくことが、浄土真宗における人生というものなのだろう。
はて、本当に、「神はそれを良きに変らせて」くれるのだろうか?
残念ながら、しばしば、人は、その途中の道のりにあっては、それがわからない、見えない場合もあるのだと思う。
ただ、わからない、まだ見えない状況だからこそ、「神はそれを良きに変らせて」くださると信じることが、希望ということであり、信仰ということなのだと思う。
人生をどう定義するかは、人それぞれなのだと思うが、私は絶望や不信の人生よりかは、希望と信仰の人生を選びたいと思うし、だからこそ、トーラーが格別心にしみる気がする。
トーラーを一言で言えば、希望と信仰の人生を選んだ人々の物語、ということになるように思う。