思考メモ ユダヤ教かキリスト教か

ユダヤ教キリスト教について云々できるほど私はこのどちらにも詳しくないし、ましてやどちらが正しいかを論じるほどの知識も体験もないので、そのようなことを論じようとは思わない。
ただ、暫定的に自分がどちらをより信じ、受け入れるかということについて、あくまで自分のために思考メモをつくってみたい。


これはあくまで自分の漠然とした印象論と直感なのだけれど、私にとっては、ユダヤ教も、キリスト教も、どちらも真理の響きがどこかにあると思う。
どちらにも、感動させられるところや、まぎれもなく真理だと思わせられるところや、魂の糧と思えるところがある。


なので、どちらもおそらく真理を含んでいると思われるが、その上で、以下のようなことを思う。


1、キリスト教の場合


・トーラーの読みが甘くなるのではないか。というのは、ユダヤ教がトーラーを身読し、血肉化するほどには、どうしてもトーラーの読みが深くはならなくなるのではないか。
・イエスパウロは立派だとして、その後の教会の歴史はどうしてああも堕落し誤謬と悪に満ちているのか。
・イエスのぶっ飛び具合に凡夫はついていけるのか。


2、ユダヤ教の場合


・イエス福音書を認めないということは、少し寂しくはないか。
・割礼や食物規定を本当に厳格にもともとユダヤ人に生れついたわけではない者は遵守できるのか。


以上、あわせて五つの疑問が今のところ、私には生じる。


ただ、まず考えやすい、ユダヤ教の場合から考えると、仮にイエスをメシアだと認めないとしても、預言者の一人だと考えれば、福音書などのある部分は受容可能なのかもしれない。
実際、シャガールをはじめ、そのように考え、受けとめるユダヤ人は多いようである。
また、ユダヤ教の三つのグループである正統派・保守派・進歩派の中で、進歩派は、割礼をしない場合や、食物規定すら全く守らないで良いとする場合もあるそうである。
そうであれば、異邦人であっても、進歩派のユダヤ教ならば、それほど受容が困難なわけではないかもしれない。
そのうえで、自分にできる範囲で、順次トーラーを段階的に遵守していけばいいのかもしれない。


次に、キリスト教についての三つの疑問だが、まずトーラーなどの読みの深さは、これはユダヤ教徒の本などを読んで学べばいいことだし、自分次第なのかもしれない。
旧約聖書を深く読み込んできたクリスチャンは数多くいることだろう。
また、その後の教会の歴史に疑問が多いとしても、それは別にイエスパウロのせいではないし、その改善がなされてきたことは常にイエスパウロの精神に立ち返ることでなされてきたと考えれば、人間の悪や罪の深さを示すだけで、キリスト教の教義内在的問題ではないかもしれない。
それに、教会に疑問があるならば、日本には無教会主義の偉大な伝統があるのだから、無教会主義として個人として生きていけばいいだけの話である。
次に、イエスのぶっ飛び具合に凡夫が完全についていけるかという問題だが、これも順次、自分にできる限りでイエスという全き理想に近づくように努力すべきということで、いきなりマザー・テレサやダミアン神父のようにすべての人がなれるともなるべきとも言っているわけではないだろう。


と考えれば、進歩派のユダヤ教、ないし無教会主義のクリスチャンとなるならば、どちらであっても、別に上記の疑問の問題はないのかもしれない。


そのうえで、上記のように考えるならば、次に、進歩派ユダヤ教と無教会主義キリスト教のどちらを自分が選ぶかという問題がある。
これは極めて難しい。


つまり、これは究極的には、イエス預言者として認めるのか、あるいはイエスをメシアと認めるのか、という選択になる。


これはなんとも、私にはわからないし、理性のみで判断できない問題のような気もする。


これはあくまで私の漠然とした感想と直感なのだが、イエスはただの預言者ではないのではないかと思う。


もちろん、預言者というのはすごいことであり、ただの人ではない。
聖書に登場する預言者というのは、モーセにしろエリヤにしろ、実に超人的な、すごい人間である。


なので、預言者として認めるだけでも、最大の敬意を払うことにはなるのだと思う。
ユダヤ教の場合は、イエス預言者として認めるかは賛否両論あるようだけれど、イスラムバハイ教の場合はイエス預言者として認めている。
これらは、最大級の敬意の現れだろう。


ただ、そのうえで、イエスは、どうも個人的には、預言者ではなく、何か、全き模範というか、神の霊に常に満ちた人だったように思う。
つまり、神の霊が時折降る、というのとはやや質が異なる気がする。


そのようなありかたをメシアと呼ぶならば、やはりメシアだったのではないかと思う。


逆に、そのようなありかたまで含んで預言者だというならば、言葉の定義の問題で、一種の預言者だったと言えるのかもしれない。
しかし、通常、預言者というのは、神の霊がある時から、時折降るものだったのではないだろうか。


だが、そう考えると、ヨハネバプテスマを受けた時に、鳩のように聖霊が下ったということが、イエスについても聖書に書かれているので、預言者という見方と矛盾しないかもしれない。


なんとも、愚かな自分には結論を出すことのできない事柄だが、イエスの十字架の道行を思うと、ローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのと同感の思いを持たざるを得ない。


そうこう考えると、進歩派ユダヤ教というより、無教会主義キリスト教に近いスタンスに自分はなるのかもしれない。


しかし、十字架の贖いということが、私はどうもわかるような、わからないような、わからないような、わかるような気がする。


エスが罪人を救うために来た、というのはわかる気がするのだが、人の罪をすべて背負って十字架で死に、そのためにすべての人の罪が許された、というのが、どうもわかるようなわからないような気がする。


そもそも、アダムの原罪というのも、わかるようなわからないような話である。


それよりは、アダムによる背きの罪をさほど重く見ず、原罪ということをそもそも考えず、十字架の贖いも気にもとめず、個々人の罪と善行為を重視するユダヤ教の方が、わかりやすい気もする。
仏教の自業自得論に近いのは、キリスト教ではなくて、ユダヤ教の方のように感じる。


かといって、自業自得の論理だけで救われるのかは、正直よくわからない。
ユダヤ教の場合、そこに祈りや神による救済の契機が入って来るので、仏教のような純粋な自業自得論とまたちょっと異なるのかもしれないが、いずれにしろ、仏教もユダヤ教も、心身共に元気な時はともかく、疲れている時や弱っている時には、なかなかきつい理屈ではある。
その時に、キリストの優しさや恵みは、身にしみ心にしみるし、救いを感じる気もする。


とはいえ、おそらく思うのは、浄土真宗における十劫安心の問題と同じで、イエスの十字架の贖いというのも、各自が自分のこととして受けとめないことには、各自のことにはならないのだろう。


人間、誰しも、忘れられない悲しみや恨みつらみは多かれ少なかれあるものだが、それが、イエスの十字架のことを思う時に、断ち切られ、許していく心がそのおかげで生じることが、十字架の贖いということであり、救いということであれば、幾分かは私もわかる気がする。
しかし、それも一挙にいっぺんに完了することではなく、そのつどそのつど、そのたびに起こることである。


というわけで、どうにも現段階では、もしイエスの十字架の贖いということが、一挙にいっぺんに完了して、心境が全く変わるという事が、キリスト教における救いであり信仰ということであれば、今の所私はピンとこないし、自分にはないような気がする。


かといって、全くキリスト教の信仰が無縁かと言うと、自分の心持としてはどうもそうではなくて、なんともイエス・キリストに対して、なつかしさや慕われてならぬ心があるし、そのつどそのつど、今述べたとおり、十字架の姿を仰ぐことにより、自分の力だけでは断ち切れぬ怒りや悲しみや恨みが、そのつど薄れたり、断ちきられたり、救われる気がする。


仏教用語を使えば、頓悟としてのキリスト教の救いは自分には今の所無縁だし、ピンとこないが、漸悟としてのものならば、いささか味わい、わかるものもある気がするし、何よりも自分には必要なもの、なくてならぬものの一つのような気もする。


とはいえ、どうも、自分としては、トーラーや詩編箴言もまた非常に大事な魂の糧だと思うし、タルムードやアガダーやカバラにも非常に心惹かれ、心の糧となる気がする。


となると、やはり、ユダヤ教も糧としつつ、イエス・キリストもなくてならぬもの、ということになるのかもしれない。


そのうえで、自分はやはり、仏陀智慧も深く敬慕されてならないものであることを考えると、あんまり何教になるかということを難しく考えることなく、自分にとって真理の響きを感じるものを、そのつど魂の糧にしていけばいいのかもしれない。
自分にとって最も真理の響きを感じるのは、聖書と仏典であるということは、今後も当分は変わらなそうである。