今日、新約聖書を再読破した。
これで、新共同訳の、旧約1502頁、旧約続編382頁、新約480頁の、合わせて2364頁、人生二度目の最初から最後までの読破を達成できた。
前に一回通読したのは、たしか十四〜十六、七ぐらいにかけてだったので、かれこれ二十年ぶりぐらい。
ほとんど忘れているところもいっぱいあったので、あらためてとても面白かった。
さすがに、2364頁の本を読むのは、なかなか骨が折れるが、ひさしぶりに読み返して、やっぱり聖書は面白いというのが素直な感想である。
これほど面白い本は、たしかにまずなかなかないだろう。
それにしても、聖書の中で、幸せに平穏な人生を無事に全うし、これといった罪も犯さず、悲劇に巻き込まれなかった主要登場人物って、ひょっとしてルツとボアズぐらいなんじゃなかろうか。
あとは、トビトとトビアたちぐらいだろうか。
他は、あまりにも悲劇や罪が渦巻いている気がする。
ことほどさように、人が生きるというのは難しいのだろう。
新約聖書は、福音書は最近よく読んで、今年だけで二回目の再読破だったのだけれど、パウロの手紙などは、かなり久しぶりに再読した。
読んでの感想は、本当にパウロはすばらしい、立派な人物だなぁとあらためて思った。
それに、今回読んでいて印象的だったのは、パウロはテントづくりの仕事で生計を立て、決して伝道や宗教のことで信徒からお金をもらっていなかった、ということである。
つまり、パウロは職業としての神父や牧師ではなく、他に生計を立てる職業をしながら、なおかつ伝道をしていた。
その点は、今のキリスト教や仏教などの伝統宗教とは大きく違うありかただったのかもしれない。
あと、信仰義認説と一般的には言われることも、たしかにそれはそうなんだろうけれど、単なるステレオタイプなレッテル貼りではなく、パウロのテキストそのものを読んでいると、どうも一般的に言われるのとニュアンスが異なるのではないかと思う。
「あなたがたに一つだけ確かめたい。
あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。
それとも、福音を聞いて信じたからですか。」
(ガラテヤ 第三章 二節)
という言葉を見ていると、パウロが言いたかったのは、信仰か行為かということではなくて、まずは恵みがあり、その恵みへの信仰によって救われるということがあって、そのうえでできる限り言行を慎み、善い行いに励む、ということだったのだと思う。
実際、あらゆる箇所で、パウロは愛や、品行を正しく努めることを強調している。
単に信仰だけあれば行為はどうでもよいとか、品行を正す努力をしなくても良いなんてことは、パウロは一言も言っていない。
律法に関しても、たしかに律法によってではなく、イエス・キリストの新しい契約によって救われるということを言っているけれど、かなり微妙な言い回しであって、律法や旧約聖書を別に無視したり廃棄したわけではなく、それらが根であり、かつて鍛えてくれたものであり、イエス・キリストによる恵みによってまず救われるが、その救いはこれらの根があったればこそだったという論理になっている。
パウロの場合は、まずはイエスによる救いを強調し、異邦人にも伝道するという使命があったという文脈の上で述べられているということを勘案しないと、正確には読めないのではないかと思う。
それにしても、パウロの不撓不屈ぶりは、以下の言葉からも胸打たれる。
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
(コリントⅡ 第四章 八、九節)
あと、惜しみなく与えようとする愛の心も。
「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
(コリントⅡ 第九章 六〜八節)
以下の言葉も、なるほどーっと思った。
「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。」
(コリントⅡ 第十三章 五節)
「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」
(エフェソ 第四章 二十五節)
「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」
(エフェソ 第五章 十節)
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
(テサロニケⅠ 第五章 十六〜十八節)
「信心のために自分を鍛えなさい。」
(テモテⅠ 第四章 七節)
「清い人には、すべてが清いのです。」
(テトス 第一章 十五節)
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
(ヘブライ 第十一章 一節)
上記の言葉は、どれも珠玉の言葉と思う。
パウロ以外の使徒の、特にヤコブの以下の言葉も素晴らしいと思う。
「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」
(ヤコブ 第二章 十七節)
「得られないのは、願い求めないから」
(ヤコブ 第四章 二節より)
旧約・旧約続編・新約と読んでいくと、イスラエルの民によるとてつもなく長い長い、深い物語が次々に展開されていくことに、本当に感心する。
やはり、何かしら、神の御手が強く働いていた歴史だったように思う。
ユダヤ教にもキリスト教にも、どちらにも、おそらくは神の御手が働いていたし、今も働いているのだろう。
また、そのうち、何年かしたら、三度目の通読にとりかかたりたいと思うし、その間も、ちょくちょく部分部分はまた繰り返し読みたいものである。