四福音書は、三、四か月まえに再読したことがあったけれど、使徒行伝は通読はたぶん十数年ぶりだった。
どちらもとても面白かった。
福音書を通読してあらためて思ったのは、「信念の力」をとてもイエス・キリストは大切にしていたということだ。
あながち、ジェームズ・アレンやマーフィーが言っている信念の力というのも、嘘ではないのかもしれない。
以下の言葉など、信念の力を教えてくれる、大変心強い言葉だと思う。
「信じる者には何でもできる。」
(マルコによる福音書 第九章 二十三節より)
「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。 」
(マルコによる福音書 第十一章 二十四節より)
「神にできないことは何一つない。」
(ルカによる福音書 第一章 三十七節より)
あと、今回、読み直していて印象深かったのは、以下の言葉。
「わたしに従いなさい。
死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」
(マタイによる福音書 第八章 二十二節)
モーセも同様の主旨のことを言っているが、本当にそのとおりだと思う。
特に、日本の坊さんには耳に痛い言葉だろうけれど、これが宗教としては大事なことじゃないかと思う。
あと、なかなかイエスの言葉はウィットに富んでいて面白いが、以下の言葉は今回読んでいて、面白さに心惹かれた。
「ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。 」
(マタイによる福音書 第二十三章 二十四節より)
自民党支持者や小沢派に、全くよくあてはまりそうな言葉である。
他にも、
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 」
(マタイによる福音書 第十章 八節より)
「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
(ルカによる福音書 第十一章 二十八節より)
「受けるよりは与える方が幸いである。」
(使徒言行録 二十章 三十五節より)
などの言葉も、感銘深かった。
あと、ひさびさに使徒行伝やロマ書を読んでて、パウロも本当に素晴らしいとあらためて思った。
しっかし、イエスもパウロもこんなに良いことを言っている立派な人なのに、その後のヨーロッパの教会はどうしてああも堕落と野蛮と暴力に満ちた歴史があるんだろう。
どうにも解せんというか、不思議なものである。
あと、パウロのロマ書の十一章を読んでいて、はっとさせられたのだけれど、微妙な表現ながら、要するに、ユダヤ教が根で、キリスト教は接木された枝、ということを言っている。
キリスト教が言うところの旧約聖書、つまりユダヤ教の聖書を学ばないと、キリスト教は根無しの枝ということになるのかもしれない。
新約聖書も、あらためて面白いと思うが、やはり旧約聖書という根があってこそのものなのかもしれない。
にしても、福音書を読み直して、あらためて思うのは、イエス・キリストは、やっぱり謎だと思う。
通常の人間の思考や感覚から言えば、ぶっ飛び過ぎだろう。
この、ぶっ飛び具合が、長い歴史の間で、大きな影響を与えてきたんだろうなぁとあらためて思った。
常識に回収されない、回収できない、生き方と発想。
そこから考えると、良くも悪くも、孔子は非常に常識人だと思う。
ソクラテスも、かなり変わったところもあるが、理性で把握可能。
仏陀は超越しているが、ぶっ飛んでいるわけではない。
イエスのぶっ飛び具合は、やはり神か宇宙人という気はする。