雑感 キリストについて

自分が大きな影響を受けたのは、たぶん、仏教とユダヤ教と、あとキリスト教ではなくて、イエス・キリストなのだと思う。

どういうわけか、あんまりキリスト教には感心しない。
その歴史も、極めて疑問だ。
そもそも、洗礼や聖餐が救いに不可欠とは思えないし、西洋至上主義的なところも疑問である。
三位一体や教皇無謬主義などというどうでも良いことのために正統だの異端だの血を流しあってきた歴史もあまりにも馬鹿げている。

宗教として見た場合、率直に言って、仏教の方が格段に優れているし、ユダヤ教の方が優れていると私は感じる。

しかし、キリスト教に対してはそのように思うが、イエス・キリストそのものは別格である。

おそらく、世界中の誰でも、キリスト教は嫌いでも、イエスその人を嫌いという人はいない気がする。
これは何故なのか、不思議なものであるが、イエスのように優しく、人格の全き人は、歴史上においてほとんど類を見ない。

その人のことを思うだけで目頭が熱くなる人は、私にとってはイエス・キリストぐらいな気もする。
その点、仏陀は静けさやぬくもりは感じるが、目頭が常に熱くなるわけではない。
モーセも大きな勇気と力をもらうが、目頭が熱くなるというのとは違う。

エスは、あまりにもその最期が気の毒だったため、あの十字架の道行を思うたびに、涙が湧かずにはおれない。
あのように善き人が、なぜかくもつらい目に遭わねばならなかったということに、どれだけ時を経ても、多くの人は今なお涙せずにはおれないのだと思う。

キリスト教には共感しないが、イエス・キリストその人にはこの上ない共鳴を感じざるを得ない。

正直なところ、あまり、仏教において、このように深いところから衝き動かされ、揺り動かされるものを、あんまり感じたことがない。
仏教はあまりにも知的で静謐なため、人を揺り動かすパッションが、どこかしら欠けがちな気がする。
昔のインドや、あるいはスリランカのような、平和で高度な国は、それでもいいのかもしれない。
しかし、かくも苦しみや悲しみの満ち、野蛮と残酷に満ちた世界において、静謐な知的な平和だけで、人が救われるのかは疑問になる時もある。
もちろん、これは仏教理解として不十分で、より深いレベルの慈悲が仏教にあるというのは、それはそのとおりだと思う。
そのような慈悲を実践した人、あるいは実践している人も、多々いることだろう。

ただ、何かしらそうしたものを越えたところで、キリストの愛というのは、もっと激しく、深く、非合理なまでの、不条理なまでの、愛の深さだったように思う。

そのようなものは、おそらく人の身には達しえぬものだろう。
ゆえに、キリストは神の人と当時も言われ、今も言われているのだと思う。

私はおよそ三位一体ということは不必要なこだわりと思うし、ドグマとして見た時は何の興味も共感もしないつまらないことで、マイモニデスが言う通り、明確に拒否した方がよほど一神教として合理的で筋が通ると思う。

ただ、イエス・キリストが人の域ではない神の愛を文字通り生きたことと、それゆえに神の人だったとしか形容できないということは、やはり思わずにはおれない。
おそらく、もともと三位一体ということを言い出した人も、何も異端審問やはてしないドグマを積み上げるために言い出したことではなく、素朴なそのような感情を表現したかったのだろうと思う。

教義として見た場合、イエス福音書の中で述べていることは、どれも別にそれ以前のユダヤ教の聖書と違うことはなく、むしろすでにその中にあるものばかりである。
エスの偉大さは、思想のオリジナリティではなく、ユダヤ教の聖書の中のエッセンスを明確に取り出し、シンプルにわかりやすく示し、そして身をもってそれを生きたことにあったのだと思う。
したがって、語弊を畏れずに言えば、上記の意味で、イエスは最良のユダヤ教徒であり、最良のユダヤ人だったと言えよう。

そして、イエスが示したそのユダヤ教のエッセンス、聖書のエッセンスとは何かというと、ひとえに、神を愛し、人を愛するという、極めてシンプルなことだったのだと思う。
これは、ユダヤ教に限らず、世界のどの文化や宗教にも、共通する真理だと思う。

日本においても、もともとこの二つのことは、歴史を通じて、いろんな形で表現されてきたことだと思う
近年、西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、中村正直を経由して、このイエス・キリストの精神をあらわした言葉を西郷が気に入って明治以後用いることになったということが言われている。
ただ、おそらくは、西郷は、もともと日本にあった儒教などの生き方や精神が、この言葉に短く集約されていると思い、気に入ったのだろうと思う。
広瀬淡窓はずっと「敬天」の思想を説いていたし、伊藤仁斎は「仁」を説き続け、その仁とは「人を愛すること」だと明確に定義していた。
うがった見方をすれば、切支丹禁制下で、儒教の形をとりながらキリスト教的なものが鎖国時代の日本でも説かれていたと見てとれないこともないが、敬天や愛人は、いずれにしろ、明治開国前から日本で大事にされ、浸透していた考えと言えよう。

したがって、語弊を畏れずに言えば、イエス・キリストは当然西洋の独占物でもなければ、キリスト教の独占物でもなく、その精神はあらゆる民族や文化や宗教に通底するものであり、その精神を具現した誰にとってもこの上なく尊い、神の人ということなのだと思う。