先祖を大切にすることについて モーセとの関連で

トーラーに描かれるモーセのエピソードの中で、私が心ひかれるものの一つに、エジプトを脱出する時に、モーセはヨセフの遺骨を運んで行った、という話がある。


「そのときモーセはヨセフの遺骸を携えていた。
ヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みられるであろう。そのとき、あなたがたは、わたしの遺骸を携えて、ここから上って行かなければならない」と言って、
イスラエルの人々に固く誓わせたからである。」
出エジプト記 第十三章 十九節)


ヨセフは、モーセよりは数百年前の人物で、創世記の中に出てくる人物である。
ヨセフはヤコブの子で、波瀾万丈の人生を送り、奴隷の境涯からエジプトの大臣に登りつめた人物である。
そもそもなぜユダヤ人がエジプトにいたかというと、死んだと思われていたヨセフがまずエジプトに奴隷として行き、そこで立身出世し、故郷にいた父ヤコブや兄弟たちを呼び寄せた、ということがきっかけだった。
創世記の中で、ヨセフは、いつか故郷に帰還することを願い、自分の遺骨が故郷に帰還することを願っており、そのことを神との間に約束したようである。


それから数百年。
ヨセフのことをエジプトの王たちは忘れてしまい、ユダヤの民は奴隷とされ、重労働を強いられた。
モーセは、ミディアンの野でエジプトを脱出せよとの神の命を受けると、ユダヤの民を連れてエジプトから脱出したいと再三再四ファラオに申し入れた。
なかなか受け入れないファラオに対し、十の天変地異が引き起こされ、やっと脱出が認められた。
エジプトから脱出する時、ユダヤの民は多くの荷物を持ち、黄金や財産もいっぱい持って、大変な喜びの中、エジプトから出発したそうである。
どうも、エジプトの人々が、善意なのか、あるいは厄介払いか、あるいは今までの奴隷として酷使したことへの償いだったのか、多くの贈りものをユダヤの人々にしたようである。


そんな中、大変な沸き立ちと、慌ただしさの中でユダヤの人々が出発する中で、モーセは別に財産を多く運ぶわけでもなく、贈りものをする人も多かっただろうに、特にそういうものを持っていこうともせず、ただ、先祖のヨセフの遺骨を、エジプトから運び出すことを忘れず、それを一生懸命行った。


おそらく、モーセは、先祖のヨセフや、ヤコブや、イサクや、アブラハムの物語は、自分の血肉になるほど繰り返し思い返して魂にしみこみ、人生の一部になっていたのだろう。
ヨセフは、自分たちがエジプトに住んでいる原因となった人物でもあったし、いったん奴隷の境遇に落ちて、そこから這い上がったヨセフの生涯を、今エジプトの奴隷にされ、そして脱出し自由の民となろうとする、ユダヤの民全体にあてはめて、模範としようとモーセはしていたのかもしれない。


モーセの宗教は、トーラーを読めばわかるように、死者のためのものではなく、生きている人のためのものである。
たとえば、レビ記には、レビつまり祭司は、人の遺体に触れてはならないし、近づいてはならないとされている。
これはつまり、祭司や聖職者たちが、葬儀や死者の供養にたずさわることを禁じ、神といま生きている人のために生きることを命じたものである。
当時のエジプトの宗教が、ミイラづくりや墓づくりなど、ほとんど死後の世界のために没頭していたのと非常に対照的だった。
実際、モーセは、死者供養をトーラーの中では全然していない。


したがって、ヨセフの遺骨を持って行ったのは、ただひたすら、先祖のヨセフへの愛情であり、ヨセフの願いを果たすためであり、ヨセフとの神や子孫の約束を果たすためだったのだろう。


私は、そういうモーセの生き方・考え方は、非常に考えさせられるし、ゆかしく思われる。


戦後の日本は、硫黄島やレイテ島に遺骨をずっと放置し続け、近年やっと菅政権のもとで硫黄島の遺骨の帰還が進んだ。
その一方で、ろくに遺骨の帰還も進めないのに、靖国神社に参拝することには熱心な政治家や人々もいる。
しかも、彼らがどの程度、あの戦争の記憶や物語に耳を傾け、語り継ぐことに熱心なのか、しばしば疑問なことがある。
むしろ、「言葉は無力なれば」などと言って、沈黙を好むようですらある。


モーセはヨセフを神に祀り上げたりは決してしなかった。
祭壇すら設けなかった。
しかし、遺骨は大事にし、故郷に帰還できるように全力を尽くした。
金や財産を運ぶことより、そのことを大切にした。


ローマなどは、皇帝が神として祀り上げられ、次々と神殿にその像が安置されていったらしい。
おそらく、年に何度かは、神として祭礼が行われたのだろう。
しかし、たまに年中行事で空疎な儀式が行われる他は、ほとんど先祖の偉大な業績や精神を思い出さない、日々の享楽にばかり走ったローマ人が増えるにつれ、かくも巨大なローマ帝国も滅びっていったのだろう。


一方、別にヨセフを神として崇めることもなく、他の先祖の誰一人として神として崇めることもなかったが、それらの先祖の物語を日々に聴き、語り継いだ。
ヨセフやヤコブやイサクやアブラハムの物語を、創世記としてトーラーの中に大切に入れて、繰り返し語り、聞き、思い起してきた。
その結果、ユダヤの民は、何度もよみがえり、決して滅びず、今も続いている。


私たちはむなしいローマやセレウコス朝シリアのひそみに倣うのか、あるいはモーセのようでありたいと思うのか。
モーセの生き方は、今の日本のありようについても、随分と考えさせられる鑑だと思う。