仮庵祭の日に思ったこと

今年は、九月十九日から二十五日まで、正確には十八日の日没から二十五日の日没まで、ユダヤ暦だと仮庵祭だそうである。

仮庵祭というのは、収穫に感謝する祭りであるのと同時に、モーセユダヤの民が荒野を四十年間旅したことを思い出し、トーラーをあらためて読み、読み終え、また読み始める祭りだそうである。

ユダヤのいつも感心させられることは、繰り返し生き生きと民族の歴史の物語を受けとめ、新たに継承していく努力である。
さまざまな節目節目にその工夫がビルトインされている。

モーセとその一行の荒野の旅というのは、少なくとも三千年以上昔のことである。
そのような三千年前の出来事と物語を、今も受けとめ、新たに味わい直し、自分自身の人生の糧とし、支えとし、背骨とするとは、すごいものだと思う。

人生に意味や方向性や支えを与えるのは、結局は物語であるような気がする。
理屈や徳目は、それはそれで尊い場合もあるが、究極的には理屈や徳目より、物語の力が大きい気がする。
聖書が今に至るまで圧倒的な生命力を有しているのは、物語の力も大きいのではないかと思う。

もちろん、ユダヤのみならず、日本にも豊かな物語は多々存在し、今も多くの国民が、平家物語や戦国時代の歴史や幕末史を愛している。
誰でも、大なり小なり物語を持ち、物語を愛しているわけで、それぞれの形があって良いのだと思う。

ただ、数多ある世界の物語の中で、トーラーの物語は、やはり格別な生命力を持つ気がする。

その一つの理由は、モーセとその一行の荒野での四十年の旅というのは、やはり人類の歴史でも希有なものだったからだと思う。
エジプトの奴隷の境遇から脱出したのも希有なことだったが、さらにその先にあった荒野の四十年を歩き続け生き残り、一歩一歩しっかりと歩み、単に身体的に奴隷でなくなっただけでなく、律法を内面化して自律し自立する精神的な自由人になるための長い旅路をユダヤの民が歩いたのは、歴史上希有な精神史だったのだろうと思う。

今年はひさしぶりに聖書を読んだし、一応、このところ毎日、ほんのわずかでも聖書を読むことにはしているのだけれど、仮庵祭の間は、またあらためて、トーラーをしっかり読みたいと思う。