雑感 共にいる神

トーラーを読んでいると、「わたしは必ずあなたと共にいる。」「わたしはいつもあなたと共にいる。」といった言葉が、しばしば出てくる。
創世記にも、出エジプト記も、申命記にもそうした表現が出てくる。

モーセも、ミディアンの野で四十年ぐらいくすぶっていたが、その間も、決して神は見捨てることも、見ていないこともなく、常に共にあり、しかるべき時に語りかけたのだろう。
そして、その後、荒野を四十年間旅する間も、常に共にいたのだと思う。

そう考えてみれば、しばしば旧約は怒りの神、新約は愛の神、と単純な区分がされる場合があるようだけれど、それは一面ではそうした面もあるのかもしれないが、もともとトーラーの神は、捨てることのない、捨てておかない、愛の要素があったということだろう。

私が思うに、おそらく、通俗的な意味における「自力」「他力」というのは(本当に浄土真宗でそれらが指している意味は通俗的な意味とはかなり違うのだけれど)、おそらく、神は関係なく自分の人生は自分の自己責任で生きる、ということと、神に任せて自分は何もしなくてよい、ということなのだと思う。

だが、これはおそらくどちらも間違っており、本当に正しいことは、自分の人生を自己責任で生き、その選択や努力に精一杯最善を尽くしながらも、自分が自分だけで生きているわけではなく、神と共に生きていると思うことではないかと思う。

自分の人生を自分として責任を持って努力しつつも、自分が一人ではなく、神がいつも共にいると考えることは、人に大きな慰めと支えと勇気をもたらすと思う。

世間の人はわからなくても、天のみは知っていると思うことは、大きな慰めや意味を人の人生に与える。
また、一人だけで人生の困難に立ち向かわなくても良い、自分とともに神も一緒に立ち向かってくださる、と思う時に、人は真に立ちあがり、勇気を持つことができるのではないかと思う。

そう考えてみれば、通俗的な意味における「自力」も「他力」も、どちらも何か抜け落ちている部分があると思われる。
大切なことは、神と共にいればこそ、道徳を実践し、努力して生きることだろう。

そのことを、トーラーは、神を愛することと、神を畏れることだと、まとめているのだと思う。
神と共にいることが神を愛することであり、そうであればこそ、道徳や良心に忠実に精一杯努力することが神を畏れるということだろう。
どちらも、トーラーの根本の精神であり、どちらが欠けても、おそらく誤りになるのではないかと思う。

とかく人がどちらかに傾きやすいことを考えれば、このバランスという点に関しても、モーセの生涯は実に貴重な鑑なのだと思う。