思考メモ 神はどこにいるのか

神はどこにいるのだろう?


という問いは、往々にして人は持つ問いかもしれない。


苦しい時や、不条理が目の前にある時は、特にそう思うだろうし、別にそういう時でなくても、漠然と持つ場合もあるかもしれない。


おそらく、それぞれの人の何らかの答え方があるのだろう。
どこにもないと言う人もいれば、寺社めぐりに見出したり、自然の中に見出したり、いろいろな答え方があるのだと思う。


あくまで、暫定的に、その人なりの答え方をするしか、まだ悟ってもいない凡夫の身にはできないことでもある。
私も凡夫である以上は、確たる客観的な答えなど到底出しようもない。
暫定的な現時点での考えとしては、以下のように思う。


以前、聖書を読んでいて、その点に関して、はっとさせられる箇所があった。


「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。」
出エジプト記 第二十九章 四十五節)


つまり、神がいるのはどこかというと、人のただ中だという。


いろんな宗教では、山の上に祠をつくったり、滝の側に寺社をつくったり、いろんな自然の中に神を感じてきたし、そういう場所にお参りに行くことが多かったようである。
日本もたいていはそうだ。


それはそれで、人間の素朴な感情に訴えるものがある。


しかし、聖書では、人のただ中にこそ神は宿る、という。


もちろん、ただの普通の世俗的で信仰もない人の中というわけではないのだろう。


上記引用箇所は、神が臨在する幕屋についての記述の中の一節である。
羊や穀物やぶどう酒を「主にささげる宥めの香り」として、「焼き尽くす献げ物」を神に敬虔に供える臨在の幕屋で、


「わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。」
出エジプト記 第二十九章 四十二節より)


と神が語ったと聖書には記されている。


したがって、そもそも「焼き尽くす献げ物」を献げしていない、献上しようという意志も全然ない人々のただ中に神が宿るというわけではない。


ただし、羊や穀物やぶどう酒を幕屋や神殿で献上していないと、人々のただ中に神が宿らないのかというと、どうもそうというわけでもないと考えられてきたようである。


というのは、この幕屋における祭祀は、ソロモン王の時代に神殿がつくられたことにより、神殿で執り行われるようになったのだが、神殿はバビロン捕囚の時期に一度滅び、その後再建されたが、またローマ帝国に滅ぼされて、未だに再建されないままに今に至っている。


それでは、神殿で祭祀が行われなければ、神は人の中に宿らないのかというと、そうではないとユダヤ教では考えたようで、敬虔な祈りの場所には、シェキナー(臨在)があり、神がその場に臨むと考えたそうである。


そして、そのためには、ただ祈りがあれば良く、トーラーに定められている羊などの供え物がなくても良いと考えられたそうだ。


敬虔な心で詩編を朗読すれば、そこに神が臨在する、言い換えれば、その人々のただ中に神が宿る、ということなのだろう。


キリスト教においては、教会がキリストの身体と考えられたようだし、聖書は神の息吹であり、それらとつながって祈る人のところには、当然神が訪れる場合もあると長い歴史の中で、当然のように感じられてきたようである。


おそらくは、他の宗教でも、似たような考え方はあったのかもしれない。
法華経如来寿量品には、一身に仏に遇いたいと思い不惜身命に願えば、その場で仏を見ることができると説いている。
浄土教においても、念仏の一声ごとに如来の光明に出遇うと述べているし、念仏三昧によって三昧発得という仏を見る体験があることを述べている。
通俗的な仏教においては、やや偶像崇拝的になる傾向も庶民の信仰ではあったのかもしれないが、本来の仏教は、別に仏像が存在しない場所においても、上記のように信仰のある場所に仏との出会いがある、言い換えれば、その人の中に仏が宿る、と考えていた。


偶像崇拝に仮に問題があれば、それは偶像のある場所しか、神が宿らないと考えるからかもしれない。
わざわざ遠くまで不便な場所に出かけていかなくても、自分が真剣に道を求め、その道に励む時に、そこに真実が宿るということが、偶像崇拝ではない宗教の教える美点なのかもしれない。
なので、そのことがわかった上で、視覚的に理解し、イメージを膨らませるために彫刻や絵画があることは、それはそれで良いことと言えるかもしれない。


聖書というのは、神がそのただ中に宿った人々の物語であり、その人々を通じて、神の働きや言葉を人は知ることができるのだと思う。
仏教というのも、本来は、空疎な儀礼や儀式ではなく、そのただ中に仏が宿った人々の物語であり、言葉なのだろう。
他の宗教もまた、その宗教に意味があるとすれば、儀式や場所ではなく、そのようなことの姿なのだと思う。


私も今までの人生で、幾人か、この人に、神か仏か知らねども、何か真実が宿っている、本当の慈悲と智慧が宿っている、という人を目の当たり見たことがある。
そういう人のおかげで、そういう真実があることをゆるぎなく知ったのだと思う。
また、直接は出遇えなかったとしても、本などを通じて、過去や同時代の多くのそういった人々を知ることもまた、ただ中に宿る神を見るきっかけになってきたと思う。


神はどこにいるのか?という問いには、したがって、「焼き尽くす献げ物」つまりその日その日を真実に精一杯、道に従って生きている人の「ただ中に宿る」姿を見ることで見つかるし、そこに見つけるしかない、ということになるのだと私は思う。