イザヤ書四十九章について

内村鑑三が、「愛とはいかなるものなるかを知るために、聖書の全体を学ぶ必要がある」と述べていて、要するに、神の愛というものを知るためには聖書を学ぶべきであり、それは学べば学ぶほど時に意外な予想外なものであるほどのものだ、ということを述べているのを先日読んで、なるほどと思ったのだけれど、その関連で、今日、心に残る聖書の言葉に出会った。


「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。」
イザヤ書 第四十九章 十五、十六節)


前にも読んだことがあったはずなのだが、さっぱりと記憶に残っておらず、今日読んではじめて非常に心に響いた。


つまり、母親が自分の生んだ子どもを愛するよりも深く、神は人に思いをかけており、手のひらに刻んで、一人一人を思って愛している、ということだろう。


時々、旧約は怒りの神で新約は愛の神、というステレオタイプな図式を聞くが、旧約のイザヤ書の中のこの言葉は、この上ないほどの愛の神の心が描かれていると言える。


前後の文脈を見れば、この言葉はシオン、つまりイスラエルの人々について述べていると読むことが妥当かもしれないが、イスラエルに限らずすべての人を愛していることも聖書では別の箇所で説かれているので、イスラエルに向けて説かれているのでシオンについての箇所で述べられているものの、全人類の一人一人に対して、神はこのような愛を持っているとこの箇所を読むことが私は妥当と思う。


母親よりも深い愛を神が持っていると思えば、自分に対する考え方も、また他の一人一人に対する考え方も、現代の索漠としたいのちに対する不感症から、だいぶ変わってきそうな気がする。


自分にしろ他人にしろ、神のてのひらに刻み込まれている存在であり、それほどにかけがえがない大切な存在だということは、イザヤ書のこの箇所を読むたびに忘れないようにしたいものである。