思考メモ
仮に、ラビ・クシュナーがヨブ記の注釈で述べているように、神は、自然法則と自由意志には介入しない存在である、つまり遠藤周作がイエスについて述べているような、優しいけれども無力な存在だとすれば、それが神だとすれば、モーセの物語に出てくる神はどう考えればいいのだろう。
モーセの出エジプト記などに出てくる神は、一見、自然法則に大胆に介入する、圧倒的な力を持った神のように見える。
エジプトに十の災いをもたらし、海を分けて道をつくり、イスラエルの民を導いた神は、一見すると、(ヨブ記や遠藤周作の解釈における)ヨブ記や福音書の神とは随分と違うような気がする。
しかし、本当にそうなのかどうかは、検討する余地があるかもしれない。
十災、つまりエジプトに降りかかった十の災いは、一種の天災やそれに付随した出来事であり、一説によれば当時のサントリーニ火山の大噴火やそれによって引き起こされた異常気象だという。
また、海が分かれてその中を歩んだ、という有名なエピソードは、潮の満ち引きや、火山噴火による津波を利用した、という説もある。
そう考えれば、モーセは緻密な自然観察者であり、科学者であって、自然法則を緻密に計算し理解し、予測し、それを利用して、イスラエルの民を解放した、ということが言えるのかもしれない。
実際、イスラエルの人々は、自分の足で、一歩一歩荒野を歩み、約束の地に向かって自分の足で歩かねばならなかった。
決して、ワープや自動で運んでくれるものがあったわけではない。
さらに、神は十戒の石板をモーセとイスラエルの民に授与したけれども、人間の自由意志はそのままで、そうであればこそ、黄金の子牛をつくったり、再三神に背いたり、モーセに背いたり、人々はし続けたのだろう。
つまり、自然法則にも、自由意志にも、神は介入していないと見てとることもできる。
むしろ、自然法則を介して、それを緻密に観察し予測し利用したモーセが自然法則を通じて、神の偉大さを明らかにしたと言えるかもしれないし、自由意志は人間にありつづけるからこそ、モーセを通じて神はメッセージを発し続けたということなのかもしれない。
では、出エジプト記における神とは、何だったのだろう。
燃える柴からモーセに呼びかけ、折々にモーセと語り合う存在だったのだろう。
自然法則を乱しもせず、人間の自由意志にも介入しないが、モーセと語り合う存在。
それが、出エジプト記や申命記等に現れる神だと見ることもできる。
神が語りかけ、その呼び声をモーセは受けとめ、奴隷の境遇だったイスラエルの民をエジプトから導き出した。
その勇気と意志は、やはり人のものではなく、モーセが神と語り合えばこそ、モーセの心に生じたものだったのだろう。
そして、モーセを通じて、イスラエルの人々に、その勇気が芽生えたのだろう。
そして、シナイの荒野を歩いていく時も、折々にモーセは神と語り合い、十戒を得、律法を得、折々の指示を得、あるいは神の意志を変えるようにモーセは交渉した。
イスラエルの人々は、あくまで自由意志を持っており、そうであればこそ時に背いて罰を受けることもあったが、モーセの言葉に耳を傾け、十戒や律法を受け入れ、精神的にも自由人としての訓練を受けていったのだろう。
そう考えると、神はいるかどうか、という問題については、むしろ、神の言葉がそこにあるか、そしてその神の言葉を聴いているかどうか、ということが問題になるのかもしれない。
モーセにおいては、たしかに神の声が聞え、神と語り合い、そうだったからこそ、あの勇気もあの行動もありえたのだろう。
そして、モーセを通じて、イスラエルの人々は神の言葉を聴いたのだろう。
モーセのみならず、アロンやミリアムや七十人の長老は、直接神の言葉を聴いたり、見えたことがあったようにも書かれている。
とすると、神がいるかどうか、という問いは、神の言葉を聴いているかどうか、聴いている人がいるかどうか、という問いとともに問うべきことなのかもしれない。
そして、まぎれもなく、出エジプト記等においては、モーセにおいてそのことがあり、その後の代々のイスラエルの人々は、聖書を通じてモーセの言葉を聴き、それらが常に心にあった以上、彼らの心には間違いなく神がいた、ということになるのだろう。
モーセにおける神もまた、自然法則や自由意志に反する神ではなかった。
しかし、モーセと語り合う中にたしかに存在する神だった。
そのことは、私も疑いえない。
というのが、今のところ思うことである。