雑感

神はいるんだろうか?

ということを、時折、思う。

アウシュヴィッツの体験を綴ったエリ・ヴィーゼルの作品を読んでいて、そのような過酷な体験をしたわけではないのだけれど、彼が神を信じなくなったと作中に書く思いのほんのいくばくかは、私もわかるような気がした。

肉親が死んでいく体験をした者は、多かれ少なかれ、そのような思いをするものではないかとも思う。
特にそれが、何かしらの不条理を感じさせられるものであれば。

神がいるならば、どうして年若くして病気で苦しみ、死んでいく人がいるのだろう。
しかも、その人が非常に道徳にも高潔で、才能も豊かであるならば。

一方、道徳的に下劣で、特に才能もない人間が、長生きをする場合もある。

これが不条理でなくて何だろうか。
神はどこにいるのか。

という思いは、この十一年ほど、時折、何かの拍子に、私の心の中にひょっと出てくる疑問だった。

この問いは、十一年経った今も、根絶されたわけではない。

しかし、一方で、別の問いも持ちうる。

世界は残酷なものでもあるが、一方で、優しい心や癒そうとする力も、働いている。
それはなぜなのか、と。

たぶん、どちらの問いも、もし前者を問うならば、後者も同様に、問われるべきことなのかもしれないとは、思うようになった。

そして、この世界が生きるに値するかどうかを問うのではなく、むしろ、生きるに値するようにしていくこと、それが大事なのではないかとも、より思うようになった。

私がユダヤ教で、非常に感心したのは、神がいるかどうかを疑うことは別にかまわないとされているという点である。

ユダヤ教の場合、神がいるかどうかを疑うことは問題ではなく、倫理に反することが問題であり、重大な律法違反をすることが問題なのだと。
神がいることを疑っていても、倫理を守り、律法に反していなければ別に問題はなく、神を信じていても倫理を守らず律法に反していればだめなのだと。
倫理を否定することが無神論であり、神の存在を否定するかどうかは問題ではないのだと。
それが倫理的唯一神教であり、ユダヤ教であると。
これを聞いた時に、胸の中に風がさわやかに吹き渡るような、我が意を得る思いがした。

また、ラビ・クシュナーがヨブ記の注釈で述べている、神は正しいが自然法則や人間の自由意志に介入できない、その点に関しては無力な存在である、しかし、人の苦しみをともに苦しみ、人の悲しみを共に悲しむ存在であり、共にいて、慰め、勇気を与えてくれる存在である、という神に対するユダヤ教の見方は、長年の問いへの非常に大きな慰めと答えとなった。

そうこう考えると、自分は、神がいるのかどうかは今もってよくわからないし、時に疑わしくも思うが、ユダヤ教には大きく共感しているのだと思う。

キリスト教はどうなのだろう。
エスは素晴らしいと思うし、パウロも素晴らしいと思う。
ただ、神がいるかどうかはわからないし、神というのは、共に悲しんでくれるかはしれないが、いたとしても、遠藤周作が描くイエスのように、現実的には無効な存在なのかもしれない。
しかし、そう考えると、遠藤周作が描くイエスというのは、不思議と、上記で述べたユダヤ教の観点と、とても似てくるのかもしれない。

私は神がいるかどうかはわからないが、イエスの愛は信じる。
それが、今のところの、私の思いである。