何かの文章や物語を読んだ時に、それをただ知っているのと、深く受けとめるのとでは、同じ文章や物語を知っているとしても、かなり異なっているのだと思う。
たとえば、創世記の中のヨセフの物語、つまり、兄たちに奴隷として売られて、エジプトで艱難辛苦の末に大臣として出世し、兄たちを許し、父や弟と再会するヨセフの物語も、
ただ物語としてだけならば、世界の多くの人が知っているだろうし、私も小さい頃に聞いたことがあった。
だが、聖書というのは不思議な本で、なぜこの物語が大切に語り継がれてきたのか、幾重にも繰り返し語られてきた、この頃、少しわかってき始めたような気がする。
というのは、この物語は、実に聖書の中に、繰り返し響き続けている物語の予兆であり、予型であり、繰り返し甦っている物語なのだと思う。
ヨセフの物語のすぐ後に出てくるモーセの出エジプトの物語は、まさに奴隷の身から自由な身となるために脱出する物語で、奴隷から自由というテーマはヨセフと通底する。
モーセは十災のあとにエジプトをイスラエルの民を連れて旅立つ時に、何よりもまずヨセフの遺骸を自ら持って運びだし、旅に携えたということが聖書に明記されている。
奴隷の身から自由の身となるというヨセフの物語は、モーセにとっても響き続け、こだまし続けていた物語だったのだろう。
そのあと、士師記でも何度も異民族に支配され、そのたびに士師が現れてイスラエルの民が自由を取り戻す物語が出てくる。
これもヨセフとモーセの物語がこだましていると言えるのかもしれない。
さらに、列王記や歴代誌では、繰り返し、偶像崇拝や世俗的な懸念に屈して、その意味で精神的に奴隷となっていたイスラエルの民が、預言者の言葉に耳を傾け、神に立ち帰る、つまり精神的に自由になる、あるいはなるべきだったことが語られる。
これも、ヨセフの物語の変奏のようにも思う。
列王記や歴代誌の最後に、ついにユダヤ王国が滅亡し、バビロン捕囚となったあと、まさに奴隷の境遇から、再び解放されてエルサレムに帰還し、神殿を再興するもろもろの預言書やエズラ記・ネヘミヤ記も、ヨセフの物語、つまり奴隷から自由への響きがある。
さらに、マカバイ王家やヘロデ王家を経て、ローマの圧制と硬直化した祭司たちの支配のもとに苦しんでいたユダヤの人々が、新約聖書でキリストの福音に救われていく物語は、罪から救い、つまり罪の奴隷から霊の自由への物語という、ヨセフの奴隷から自由へという物語と通底していると言える。
ヨセフの奴隷から自由へという物語は、モーセやイエス・キリストによって、徐々に拡大され、深められ、繰り返し聖書の中に響き続けている。
これは偶然ではなく、ある何らかの物語は、遠い未来を先取りし予言するものでもあるし、あるいはその物語を繰り返し聴いて血肉化する人々が、さらに深めて、その後の歴史に奏で続けるということでもあるのだと思う。
聖書の中だけでなく、その後の歴史においても、イクイアーノやフレデリック・ダグラスなどの個々の人の人生に、そしてリンカーン自身の人生とアメリカの歴史に、このヨセフの物語は響き続けたと言えると思うし、他国においても、探せば同様なことが言えるのだと思う。
ひるがえって、日本の場合はどうなのだろう。
公家の支配から武士たちの世をつくる吾妻鏡の物語は、ある意味で、奴隷から自由への物語だったと言えるのかもしれない。
武士の支配から、四民平等の世を目指した明治維新も、ある意味で、奴隷から自由への物語だったのかもしれない。
単なる政治的な被支配の状態から、閥族打破と国会開設と普通選挙を目指した自由民権運動や大正デモクラシーも、ある意味で、奴隷から自由への物語だったのかもしれない。
貧しい窮乏の状態から、物質的に自由な状態を目指して懸命に経済を復興し高度経済成長を成し遂げた戦後の日本も、ある意味で、奴隷から自由への物語だったのかもしれない。
我々日本人の大半は、ヨセフの物語を知らない人も多かったかもしれないが、同様なモチーフは見つけられるかもしれない。
今と、これからはどうなのだろう。
大量消費社会から省エネやリサイクルに励み、脱原発を実現するとしたら、
それは欲望の奴隷から自律性のある自由への物語となるかもしれない。
非正規雇用が蔓延している今の世で、適切な雇用政策や社会保障を整備していくことも、奴隷から自由への物語かもしれない。
アメリカとの地位協定を改定し、沖縄の負担を軽減していくことも、奴隷から自由への物語かもしれない。
ヨセフの物語を、どう響かせ、その純粋なこだまとなり、その響きを深めていくかは、その時代その時代の人々次第なのだろう。