- 作者: 谷隆一郎,熊田陽一郎
- 出版社/メーカー: 教文館
- 発売日: 1992/11
- メディア: 単行本
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もうかれこれ十数年前、たしか二十歳の頃、たまたま読んでいた西欧神秘主義の概説書に、ニュッサのグレゴリオスの『モーセの生涯』という本が紹介されていて、いつか読みたいと思っていた。
その解説によれば、モーセの旅路を霊的に解釈したもの、だとのこと。
最近、今年に入ってから、再び聖書にはまって、出エジプト記や申命記も何度となく読んだ。
関連の解説書なども何冊か読んだ。
それで、ふとそのことを思いだし、いつか読みたいとかねて思っていた。
と、つい先日、何の気なしに図書館の本棚で手にとってぱらっとめくったこの本に、なんとこの『モーセの生涯』が収録されていた。
驚いて読み始めたところ、想像以上に素晴らしい本だった。
著者が言うには、モーセは私にたちにとっての「範型」、つまり人生のモデルであり手本である。
モーセのように、高みをめざし、山に登るように徳に向かった道のりを無限に進むこと。
そのような人生を「アレテーの道行」と著者は言っている。
アレテーとは、徳のことである。
著者が言うには、人間というのは常に生成変化している存在であり、「自由な選び」(プロアイレシス)により、良い方向に進むこともできれば、悪い方向に堕ちることもできる。
常に生成変化する存在である以上、ある意味、人は誰しも自分自身の生みの親である。
だからこそ、ロゴスの形相を自分に刻み付けることが大切だという。
そうしないと、悪徳の教えの形相を自分に刻み付けることになってしまう。
人は、このどちらかを常に選択することになる。
モーセのように、神にひたすら聴き従い、アレテー(徳)に向かって前者の道をひたすら進むことが、人間として最も望ましい。
そうした観点から、著者は、出エジプト記などのさまざまな出来事を、すべて象徴主義的に解釈し、そこに霊的な意味を見い出していく。
おそらくキリスト教徒以外から見たらかなり強引な解釈もあるけれど、その手際があまりにも見事なので、霊的な解釈とはこのようなものかと眼が醒める思いがするところもとても多かった。
また、異郷の哲学は、アレテーを生む限りにおいては役立たせられるべきで捨ててはならないということを力説しているところが興味深かった。
異郷の哲学の肉的な部分を除去することが、本当の意味の割礼ということだそうで、そうした観点から正しく異郷の哲学もキリスト教の信仰によって純化し、善用すべきだと著者は述べる。
信仰と生に関する善き良心。
この二つを、著者は重視している。
キリスト教とアリストテレス哲学とモーセのトーラーが絶妙に合わさって昇華されている、稀なる良い本だった。
ニュッサのグレゴリオスは四世紀頃の人だそうであるが、
「生のありかた・かたちを択びとることは、各々の人の自由な択びの力に委ねられている」という考え方は、ルネサンスのピコ・デラ・ミランドラなどをはるかに先取りするものだと思う。
私も遠く及ばぬながら、キリストやモーセに倣って、少しはあやかって生きたいと、あらためて深い感銘とともに思わせてくれる、そうした勇気や活力を与えてくれる本だった。
この本にめぐりあえて良かった。