神を信頼することについて

「神を信頼する」とは、具体的にどういうことなのだろう?

どうもいまいち、私にははっきりわからない。

聖書には、しばしば、神を信頼すること、神に信頼することが説かれる。

いまいち考えてもわからないので、ネットで検索してみたら、神の存在を信じること、神が自分の敵ではなく味方だと信じること、などなど書いてあった。

道理があると信じること、そのうえで、人格を持つ神がいて、その神が、人に無関心ではなく人に関心を持つこと、を信頼することといったところだろうか。

神が自分に無関心や冷淡ではなく、関心を持ち、自分の人生に関わり、信頼できる支えや味方であると思うこと。
それが神を信頼するということだろうか?

確かに、聖書はこのような意味での神への信頼が基調にある。
モーセダビデもダニエルも、使徒たちも、そういう人々だったろう。

エスが十字架にかけられた後、普通だったら神への信頼がボロボロになって落伍してもおかしくないのに、逆に神への信頼がよみがえって、イエスがいた時よりも確固とした信仰と勇気を持ったペテロたちの姿は、確かに非常に不思議なものだと思う。
そう考えれば、復活という事は、常識を絶するが、何かそういうことがあったのかもなぁとも思う。

しかし、神への信頼というのは、何か劇的な体験や回心を必ずしも持たない人でも、持ちうるものなのではないかと思う。
第一、そうでないと、後世の凡夫は持ちようがないだろう。

あるサイトには、こんなことが書いてあった。

信頼するためには、

1、信頼できる誰かを見つける。
2、その人についてよく知る。
3、知るためによくコミュニケーションをとる。

ということが大事であり、神について信頼することにもこれが重要とのこと。
つまり、キリストをよく知れと。

また、あるサイトには、神を信頼するとは、自分に対する神の処置がすべて正しかったと認めることだ、ということが書いてあった。
なるほどーっと思う一方で、自分はどうもこれが全然できていないなぁと思った。
どうも、自分はそう思えるようになりたいとは思いつつ、それがどうも思えない。

神を信頼するとは、どうも私のような人間には甚だ難しいことのようだが、その理由は、三つほどある。

1、自分の人生に対して神がなした処置の全てが正しかったと思えるほど、自分はこの世と和解していないし、いろいろとつらいことや嫌なことが良かったとは思えない。
2、この世の不条理や不正を見ていると、とても神がいるとはしばしば思えなくなるし、神に対する信頼が損なわれる。
3、聖書を読んでいても、繰り返しイスラエルはひどい目に遭遇し、神の怒りが恐ろしいばかりで、どうもその愛を信頼する気になれない気がする。

しかし、これらは本当は間違っているのかもしれない。

1、神の処置はすべて正しかった。
2、人間が自由意志で起こした不正や過ちを、必ず神は時が経つうちに正している。
3、神は怒っても、人が悔い改めればすぐに怒りをやめ、イスラエルをたびたび再び立ちあがらせ、虜囚から自由の民に戻し、国すらも再建させた。

と考えてみることもできる。

いずれにしろ、聖書をもっとよく読み込み、神を知り、キリストを知らないことには、神への信頼ということもないのかもしれない。