雑感:私はなぜキリストを信じるのか、そして仏教を学ぶのか

「私はなぜキリストを信じるのか、そして仏教を学ぶのか」


ふと、このことを考えてみると、正直、なかなかよくわからなくなる。
というのは、私の幼少年期、青年期はキリストを基本的に拒み、無関係で通してきたし、家の宗旨は浄土真宗であり、仏教はそれなりに学んだものの、キリスト教はせいぜいここ二、三年の信仰に過ぎないからである。
多くのクリスチャンの素晴らしい方々に出会ったことも大きいとはいえ、仏教者の非常に素晴らしい方にも大勢お会いしたことがあるので、人の良し悪しのみが原因とも言えない。


ではなぜ、私はキリストから離れないのだろうか。
おそらくは、たえず離れようとしているにもかかわらず、キリストがとらえて離さないからのような気もする。
もっと言えば、キリストを離れたところにはいのちがないと気付いたからかもしれない。


キリストはいのちの木であり、キリストから離れてはいのちは枯れていく。
キリストにつながってこそ、いのちはある。
ヨハネ15:1、ホセア14:9)


これは理屈ではなく、実験である。
他人のことは知らない。
私の場合は、実験の上で、明らかにそうだと言える。
不思議なことだが、ひとたび気付いたあとには、こうとしか言いようがない。
他の宗教でいのちに触れないかどうか、いのちにつながらないかどうかは、私にはよくわからない。
しかし、私の場合、キリストにつながっている時に、最もいのちにつながっているのを感じる。
これは他をもってしては、どうしても代替ができない。


したがって私はキリストを信じる。
いくたびもキリストから離れようとしているが、気が付けばすぐに立ち帰る。
キリストにつながってこそ、いのちがあるからである。


これはもはや理屈ではない。
しかし、実験上体験できる道理である。


では、仏教徒ではないのか?と言われると、これまた正直よくわからない。
仏教徒の定義は、仏法僧を尊敬し、五戒を守ることだそうである。
とすれば、私は仏教徒でもあるのではないかと思われる。


キリスト教徒であることと仏教徒であることは両立しうるのか?
これは極めて難しい問いのような気はする。


キリスト教徒であることの定義は、天地創造の神と、その神のひとり子が受肉してこの世を救いに来て、十字架にかかり、三日ののちに復活した、そしていつかまた再臨する、と信じることだろう。
とすれば、私はこれは信じている。
先に述べたとおり、仏法僧を尊敬し、五戒も保っているので、仏教徒の定義にも合致する。
そもそも、モーセ十戒と仏教の五戒はかなり一致している。


とすれば、私はキリスト教徒でもあり、かつ仏教徒でもあるのだろうか。


しかし、ここに二つの矛盾する問題も生じうる。
仏教は唯一の神を否定する。
また、キリスト教は、偶像崇拝を否定する。


しかし、もともと仏教には偶像は存在せず、釈尊没後数百年経ってからギリシャ文明の影響で偶像がつくられるようになったことと、上座仏教や浄土真宗の仏像はあくまで象徴的な意味あいのみであり、キリスト教会の中のイエスやマリアの像みたいなものだと考えれば、偶像崇拝は問題にはならないと思う。
仏教の中には偶像崇拝色の濃厚な宗派や信仰形態もあるが、あれは本来の仏教から逸脱したものとも言いうるし、そうした形態のものでなければ、偶像崇拝の問題には抵触しないと思われる。


問題は、一神教の問題である。
仏教は、特にそのごく初期の原始仏教や上座仏教は、きわめて無神論的である。
神々の存在を認めているので、全くの無神論とはいえないが、いずれにしろそれらはキリスト教で言うところの天使に相当するような存在であり、唯一絶対の神、天地万物の創造主としての神ではない。


結局のところ、キリスト教と仏教の最大の相違点は、偶像崇拝の有無ではなく、唯一絶対の神の存在に帰着する。


それでは、私はどちらをとるかといえば、無神論よりは唯一絶対の神の存在を信仰する立場をとる。
なぜならば、そうでなければ、とても自分が救いを感じることができないからである。
神が存在しない世界であれば、この世界ははたして生きるに値するのか、私は正直よくわからない。
仮に神がなければ、この世の不条理や不正義を正し裁く存在がないということになり、この世には何の救いもないのではないか。


もっとも、仏教においては、因果の道理、カルマの法則が、不条理からの救済の論理として存在する。
短期的に目には見えなくても、長い目で見れば、善因楽果、悪因苦果の法則が実現すると。
したがって、一神教において神の裁きがあるということと、究極的にはさほど変わらないのかもしれない。
正義を信じる心は、そこにおいて存在する。


しかし、である。
仏教においては、因果の道理・カルマの法則が倫理を究極的に担保しているとしても、それはあくまで機械的な法則でしかない。
そこには人格的な要素は存在しない。
もちろん、仏陀自身は人格的な存在であり、ぬくもりもある存在ではあるが、法則自体は非人格的なものである。


一方、一神教の神・ヤハウェは、人格的な存在であり、一種の因果律によって裁くのと同時に、因果律を超越する存在であり、自由に因果律に介入する存在である。
基本的にはこの世界が因果律によって運航しているとしても、なお時折神が因果律を越えて介入し、自由な創造を行うし、人の祈りに応えるというのが、一神教キリスト教の内容である。


私は、機械的因果律の法則よりも、ヤハウェの人格的な存在がなければ、救いを感じない。
というのは、機械的な因果の法則において、自分が救われる余地があるのか、極めて疑問だからである。


だが、因果の法則を完全に否定するつもりはない。
キリスト教は因果の法則を否定するものではなく、因果の法則を基本的に尊重しつつ、なおその上をいく人格的な神の存在を説くものだと思う。
だとすれば、祈りによる神との人格的な応答とともに、因果の法則に沿って生きることも大事になる。
前者の部分は聖書や一神教を通じてのみしか学ぶことができないとしても、後者の点では仏教から学ぶべきことや学びうることもあると思われる。
それは、中世の神学者が、アリストテレスプラトンから学んだことと同じである。


ロマ書の中でパウロは、自然の律法と啓示による律法と福音の三段階を述べている。
仏教はこのうち、自然の律法に相当する。
私はそう思う。


したがって、仏教において自然の律法を学びつつ、聖書によって啓示による律法と福音を学ぶことは、なんら矛盾ではないと思う。
つまり、カルマの法則・人の道徳世界における因果律を仏教に学びつつ、なお因果律を超えた人格神の啓示と福音を聖書から学ぶことは、両立しうることと考える。


これはキリスト教・聖書の立場に立って、そこから仏教を包摂し意義付けした会通の仕方であるが、仮に仏教の立場に立った場合はどうだろうか。
仮に仏教の立場からキリスト教や聖書を見た場合、唯一絶対の創造神の存在は相いれないとしても、イエスパウロやその後のマザー・テレサなどの人々の慈悲の生き方は最も尊敬に値し見習うに値する功徳に満ちた実践と模範例と言える。
したがって、仏教の立場からした時に、キリスト教や聖書は解脱には達することがない限界のある教えということになるのかもしれないが、倫理や慈悲の実践に関しては、世間的な福業や善に満ちたものであり、その慈悲の実践に関しては極めて高く評価しうるものと言えるだろう。
これは、もちろん仏教の立場に立った場合の会通の仕方であるが、さらに仏教の立場から言えば、キリスト教には瞑想実践が乏しく、無常・無我・苦の真理に達していないので、解脱はできない、不完全な教えということになるだろう。
これは、キリスト教の側から言えば、仏教が唯一絶対の天地の創造主の認識に至っていない、せいぜい自然の律法の段階に止まる不完全な教えということになるのと同様である。


したがって、相違はある。
しかし、会通可能な部分も存在する。
私の現段階としては、キリスト教の立場に立って仏教を会通して、両者を学ぶという立場をとりたいと思う。

ただし、これは妙な話だが、私はキリストを信じるにもかかわらず、いま現に肉体をもって生きている人間の中で最も尊敬し信頼できる人は、仏教の僧侶のD長老である。
私の家族とD長老の二人が、私がこの世で唯一、本当の意味で全く信頼できる人物と思っている。
いま現に肉体をもって生きている存在ではない、精神的な存在としては、キリストも最も信頼しているし、信頼できると思っているが、なんともこれは奇妙なことである。
私が知っている人類の中で、最もイエス・キリストに近い人が、仏教の僧侶であるD長老だからである。
ちなみに、私が知っている人の中で、最も親鸞聖人の面影を感じる人は、本田哲郎神父である。
なんともはや、めちゃくちゃな話であるが、しかし、究極的に道を究めれば、その頂では案外狭い境界線はないような気がする。
いかなる道を辿ろうと、大切なことは、自分が選んだ道、自分が選ばれた道を、一生かかって極めることなのだろう。