宗教の根幹は物語や説話

ユダヤ教の面白さのひとつは、物語に満ちているところだと思う。


聖書も、タルムードも、物語や説話が満載である。


仏教も、ジャータカのように物語の説話もあるが、全体としてそれほど割合が多いわけでもない気がする。


キリスト教も、イエス自身は、譬え話を多用し、自らの人生も物語だけれど、パウロらの書簡や、その後の神学というのは、論理的な話がほとんどで、物語というわけではない。


もちろん、どの宗教にも論理的な部分や教義的な部分と、説話や物語の部分とがあるのだろうけれど、ユダヤ教の場合、この物語の比重や重視が並外れて大きい気がする。


そのため、聖書もタルムードも、実に豊饒な、独自の生命力を持っているのだと思う。


神学や論理よりも、究極のところ、人間の血肉になっていくのは、物語のような気がする。


もっとも、キリスト教も仏教も、中世の説話集などは、それこそ説話や物語の世界そのものである。
ただ、それらは、庶民の教化や布教用の、周辺的なものであるような気がする。
ユダヤ教の場合、説話や物語が根幹に位置づけられているところが面白いと思う。


キリスト教や、あるいは他宗教の仏教徒が、ユダヤ教から最も学ぶことがあるとすれば、それはこの説話や物語の力なのではないかと思う。
もちろん、仏教の場合は、ともすれば大乗仏教では見落とされがちな、ジャータカの重要性をもう一度認識し直すこともあってしかるべきだろう。


教理や神学はそれはそれで大事だが、それだけだと、ひからびた心になってしまう危険性もなきにしもあらずと思う。
宗教の根幹は物語や説話、というと語弊がある場合もあるかもしれないが、それほど的外れではないと思う。