「神」について

世の中には、おそらく、「神」あるいはそのようなものを求めてやまない人と、さほど気にしない人と、二種類いるのだと思う。


日本人の場合、特に若いうちは、大半は後者だろう。


どういうわけか、私は前者に生れついてしまったようで、これっばかりは性分だから仕方ない。


といっても、私は、これが「神」だとはっきり言えるわけでもないし、聖書の預言者のようにそのメッセージを聞いたことも、目の当たりみたこともないので、漠然とその働きがあるような気がする、程度のことである。


しかし、何かしらそのような働きがあるような気はするし、そのなんらかの絶対者のような存在との対話なしには、人生はなんともやりきれないし、味気ない気がする。


そこで、しばしば思うのは、仏教においては、「神」のような絶対者は、はたしてどのような位置づけになっているのかということだ。


通常、宗教には、「神」のような存在が不可欠である。
世界の六十億ぐらいの人口のうち、三十億以上が、キリスト教イスラム教という一神教の人々に占められている。
インドのかなりの割合を占めるヒンズー教も、多神教ではあるが、神が存在している。
どの宗教もたいていはそうである。
その中で、通常論点になるのは、一神教多神教かということである。
私はどういうわけか、一神教的なものに心惹かれて、あんまり多神教には実存的な必要性は感じたことがない。


その点、仏教はどうであろうか。


一口に仏教といってもさまざまな流れがあるのだけれど、どうも初期仏教というのは、一種の無神論なのではないかとも思う。
精霊のような存在である、多神教的な神々は一応その存在を認められているのだけれど、それほど重要な存在ではないし、別にそれによって救いを得ようとするわけでもない。
人間は、基本的に己の力で己を救うものとされる。
帰依の対象の仏法僧のうち、法(ダンマ、ダルマ)は、非人格的な法則であり、人格神とはだいぶ異なる。


というわけで、非常に合理的で、ある意味、現代人に最も受け入れやすい合理性を具えているものだ。


しかし、はたしてそれでいいんだろうか?
人間って、そんな無神論で救われるんだろうか?
という疑問が、しばしば起こる。


もっとも、のちの大乗仏教になると、一種の絶対者的な存在が、しかも人間と対話する、我と汝のような関係のものとして、立ち現われてくる。


その最たるものが、浄土三部経における阿弥陀如来だろう。
もうほとんど、ここまで来ると一神教である。
というより、一神教の一種と考えた方がわかりやすい気もする。
浄土真宗などは、神祇不拝、一向専念無量寿仏、といって、ほとんど一神教のような傾向を帯びる場合もある。


何か名状しがたい、形容できない、唯一不可分の実在者が存在しており、それ以外のものはこの実在者との関係においてのみ実在しうる、というスピノザのような考えに立てば、世俗的な合理主義や無神論というのは、どうにも十分に満たされないもののような気がする。
なにかしらの絶対者がいて、それと対話的な関係に入ってこそ、心が満たされると思う。


とはいえ、これは、もう全く個々人の実存の問題であり、人によっては世俗的な合理主義や無神論でも大丈夫だし、あるいは多神教の方が性にあうという人もいるのだろう。


私の場合は、一神教的な仏教である浄土教か、ユダヤ・キリスト・イスラム・バハイなどの一神教の方が、無神論多神教よりは、なんだか性にあうし、実存の要求にフィットする気がする。


もう、これは性分としか言いようのないものなのだろう。
それか、仏教の立場に立つならば、長い過去世からの業のようなものかもしれない。