選択集再読

選択本願念仏集をひさびさに読み直した。

やっぱすごいわぁ。。

たぶん、日本の仏教は、選択集によって、一種の認識論的断絶がなされたんだと思う。

パウロの用語を仮にあてはめて述べるならば、要するに、律法主義を徹底して排除して、信仰による救いを徹底して仏教において確立したのが選択集だったのだと思う。

そう思って読むと、これほどすごい信仰の書は古今東西にも本当に少ないと思う。

通俗的な理解だと、法然は念仏の行を明らかにしたのに対し、親鸞は信心を明らかにしたと言われる。
それも一応そう言えないこともないけれど、今回読み直していてあらためて思ったのは、選択集もはっきりと「三心」(つまり信心)が欠ければ往生(つまり救い)は不可だとしていることである。

三心を「至要」、つまり最重要と言っているわけで、選択集を正確にきちんと読めば、単なる行ではなく、信心の書、信仰の書であることは疑うべくもないことである。

あと、三縁や三心四修の内容は、極めて能動的な主体的な信仰者の姿勢や生き方が問われていることに、あらためて気づいた。

こういうことを言うと、たぶん仏教の人からもキリスト教の人からもいやがられるかもしれないが、昔の西洋の教父たちがソクラテスを「キリストを知らざるキリスト者」と言った表現が、日本においては実に法然上人にあてはまる気がする。

浄土教キリスト教の類似性はよく指摘されるけれど、あらためて不気味なほど似ていると思った。
多神教的な日本の風土の中で、最も一神教に接近したのは法然浄土教であり、一神教の器を最もよく整備したのは法然と言えるかもしれないと思う。

あと、末尾の部分で引用している善導の、「慈心相向、仏眼相看」、つまり慈しみの心でお互い向かい合い、仏のまなざしでお互いを見る、という言葉に、あらためて感銘を受けた。
念仏者の生き方とは、そのようであるべきなのだろう。

選択本願念仏集 (岩波文庫)

選択本願念仏集 (岩波文庫)