雑感 詩篇について

聖書の詩篇を読んでいると、本当に、率直に神に対して祈り、呼びかけていることに、あらためて驚かされる。

「他力本願」という言葉は、よく本来の浄土真宗の意味とはかけ離れた意味で間違って使われるが、その間違った意味における「他力本願」に、ある意味詩篇は相通じていると思う。

つまり、徹頭徹尾、神に願い、神に委ねる信仰の世界が、詩篇には存在する。

別の言い方をすれば、「困った時の神頼み」の世界である。

浄土真宗は、しばしば「他力本願」の間違った意味において誤解されているけれども、実際は、現世利益の加持祈祷を一切行わないという、わりに厳しい世界である。

それと比べて、詩篇は実に、ある意味、都合が良いまでの、自分の願い、自分勝手な願いが、非常に素直に、率直に綴られている。

赤裸々に敵に対する憎しみや処罰を求める心が綴られ、神に祈られているのを見ると、しばしば読みながら、これでいいんだろうか?という気すらしてくる。

そして、そうした自分の願いや求めに、必ず神は耳を傾け、応えてくれるという確信が詩篇には綴られている。

これは、ある意味、自分の都合の良い願いには耳を傾けてくれないと教える浄土真宗より、非常にラクな宗教だろうなぁと思う。

ましてや、基本的に祈りということにウェイトを置かず、合理的な自制を重視する初期仏教やストア派哲学より、ずっとラクな気がする。

良し悪しではなく、一神教というのは、非常にラクだろうなぁと思う。

だからこそ、生きていけるんじゃないかと思う。
中東の厳しい環境では、こうした一神教でなければとっくに生きていけない人も多かったことだろう。

実際に、祈りがかなうかどうかは、これは傍からはなかなかはわからない。
すぐに祈り願うことがかなえば、それは目に見えて観察できるが、長い時がかかることも多々あるだろうし、その途上の場合、傍からはその願いや祈りがかなっているのか、かないつつあるのか、あるいはかなわないのかは、なんともよくわからないことである。
傍のみならず、本人でもわからない場合もあることだろう。

しかし、祈り願うことが素直にできるならば、そこに絶望はないかもしれない。
忍耐や待ち焦がれる気持ちはあっても、祈り願うことができるならば、だいぶ気持ちはラクになるような気がする。

祈ることすらできないならば、人生にはいくばくの支えや慰めがあることだろうか。

中東の過酷な環境や歴史の中で、ユダヤやアラブの人々が絶望もせず、楽天的に健康に生きていくことが可能だった背景には、徹頭徹尾、困ったときの神頼みと神任せができる、聖書やコーランの世界があったからのような気がする。

初期仏教やストア派哲学の克己心は、たしかに理想としては素晴らしいと思うが、私のような凡夫には、憧れつつも、なんとも到達しえない高嶺の花のような気もする。
困ったときに、困った時の神頼みができる、聖書の詩篇のありがたさは、聖人や賢者ならぬ凡夫には、この生きづらい世を生きていく上において、この上ない助けになるのではないかと思う。

詩篇は読んでいて不思議なことは、切羽詰まってもう駄目なんじゃないかと思う時に、しばらくそんな思いで詩篇を読んでいると、自然と落ち着いて、神が共にいればなんとかなるだろう、という落ち着いた気持ちになってくることである。

そして、詩篇の素晴らしいところは、そのような勇気と慰めを与えてくれた上で、単に神任せにするというよりは、神と共に歩み、立ち上がる力を与えてくれることだろう。

詩篇の中の詩のかなり多くはダビデの作ということになっている。
その中のどれぐらいが実際にダビデの作なのかはよくわからないが、サムエル記を読むと、ダビデはすぐれた信仰と詩の人であるのと同時に、緻密な政治家や戦略家でもあり、決して自分はぼーっと何もせずにいる人ではなく、常に機敏に俊敏に時勢をよく見て、生き残るために全力を尽す人物だったことがわかる。

詩篇のように、率直に神に願い求め、そして必ずその願いや呼び声に神が応えてくれると確信し、神と共にまっとうに歩み、自分自身も全力で生き残るために、勝利するために、緻密に、俊敏に生きるというのが、ダビデに代表される、ユダヤのあるべき姿であり生き方なのだろうと思う。

とすると、詩篇は、サムエル記や箴言やトーラーと緊密に結びついており、困った時の神頼みをしていると、おのずと智慧や勇気に導かれるような、非常にすぐれた書物であると、ただただ感嘆させられる。

そうこう考えれば、「他力本願」というのも、「困った時の神頼み」というのも、別に悪いことではなく、むしろ詩篇を通じれば、それらは良きに転じられていくのであり、大切なことは、神の力(本願力)に触れ、もろもろの迷いや絶望ではなく、神を頼みとすることなんだろうと思う。

聖書はもちろんどの他の箇所も素晴らしいものだけれど、詩篇ばかりは、ちょっと他の宗教や文化には存在しえなかった、ユダヤならではの、非常にすぐれた魂の書だと、この頃読み直してあらためて思わざるを得ないし、それが聖書の中に他の箇所と関連し合いつつ存在していることのすごさには、ユダヤ智慧の深さとして、ただただ感嘆させられるばかりである。