枝野幸男氏が最近刊行した『枝野ビジョン』(文春新書、2021年)を読んで、政策には違和感がなく共感するところも多いものの、第一章の宗教と歴史についての箇所がなんとも疑問に思わざるを得なかった。
中には、一章は枝葉末節であり、しかも歴史学者が書く著作ではないのだから雑でも良い、文句を言うな、という立場の人もあろう。
しかし、宗教と歴史は、いわば魂であり、根幹である。
今は良い枝や葉も、根や幹が腐っていたり曲がっていれば、いずれ長期的にはゆがみ腐るのではないかと心配するのは当然と思う。
ゆえに、『枝野ビジョン』第一章の宗教と歴史観について、問題と思われるところを指摘したい。
枝野氏が『枝野ビジョン』第一章で主張している主な内容は、日本は多神教文明であり、多神教だから寛容である、ということと、水田稲作を軸とした村落共同体だったために合意が重視され支え合いの精神が強く存在し、この水田稲作村落共同体の伝統が支え合いと助け合いの精神を育み近代以降も強く日本社会の支え合いと助け合いの精神を形成してきた、という主張である(同書28~32頁)。
最初に水田稲作村落共同体だから支え合いと助け合いの伝統が存在するという主張を検討したい。
まず疑問なのは、枝野氏の日本社会の柱は水田稲作村落共同体であるという主張においては、中世の日本で、商業や芸能などの非農業民の活力や文化が豊かにあったことを指摘した網野善彦の史学が完全に無視されていることである。
多様性を言うなら、網野史学をこそ参照すべきだったろう。
水田稲作や村落共同体も重要な要素ではあったが、あくまでone of themに過ぎないし、多様性を言うのであれば戦後の歴史研究で進んできたそれ以外の要素にも目を配るべきではないか。
また、水田稲作の村落共同体だから日本に助け合いや支え合いの精神や伝統が存在しているという主張は非常に疑問である。
たとえば、戦国時代においては、アルメイダらのイエズス会の人々のところに、大勢の貧しい病人やけが人や孤児たちが集まって来て、宣教師たちが治療や世話に当たったことが歴史に記されている。
要するに、当時の日本社会の助け合いの機能が機能不全で、そこからこぼれ落ちた人々が多数いたわけである。
近代になってからも、貧民街の救済は賀川豊彦などのクリスチャンが主に行っていたし、鉱害問題への取り組みも田中正造のようなクリスチャンが行っていた。
はたして、中世や近代において、水田稲作文化が育んだ日本の伝統の助け合いの機能とやらが日本社会にどの程度働いていたのか、上記の事例を見ただけでも疑問に思わざるをえない。
これは今でも基本的に同じだと私の個人的経験からも思われる。ホームレス支援の炊き出し支援に何度かボランティアで行った時に、そこで見た炊き出しを実際にやっている人たちは、ほとんどクリスチャンか共産主義系の人々で、それ以外ほとんど見たことがなかった。
一年間のNGOやNPOに対する寄付金の総額は、アメリカと日本では桁違いにアメリカの方が多く、ボランティアやチャリティの活発さにおいて圧倒的にアメリカの方が優っていることも周知のとおりである。
社会福祉や社会保障の点においても、畜産業が基盤の北欧の方がよほど日本よりも進んでいる。
水田稲作の村落共同体だったから日本社会には支え合いや助け合いの伝統が存在している、というテーゼは、非常に疑問に思わざるを得ない。疑わしい過去の伝統を持ち出したりせず、現在の政策として淡々と社会保障の必要性を実務的に主張する方が、付け焼刃の文明論を振り回すよりよほど枝野氏にはふさわしかったのではないか。
また、水田稲作の村落共同体における排他性や同調圧力の問題を無視するのはいかがなものかと思う。
農村内部での寄合や合意というのもかなり問題が多く、村八分という言葉が今にも通じるような要素を常に持っていた。
洪水があれば人柱を話し合いで決めて、弱い立場の人に押し付けていけにえに捧げることもあった。
また、水田稲作の村落共同体から外れた人々への抑圧や差別が中世や近世において極めて深刻なものだったことは、部落差別の歴史を少し見れば容易にわかることである。
日本の農村がいかに排他的なものだったかは、戦時中に都会から疎開した人々の多くの苦労話を見ても、一目瞭然だろう。そうした体験談や回顧談は、それこそありふれたもので枚挙にいとまがないが、たとえば小熊英二の『民主と愛国』にもいくばくか紹介されている。
多様性や合意を重視する枝野氏が、安易に日本の水田稲作村落共同体の美風のみを称揚する姿勢は極めて疑問に思わざるを得ず、プラスの面を見るのであれば、同様にその反面のマイノリティ抑圧の要素を見逃すべきではない。
日本が水田稲作村落共同体の伝統があるから合意を重視したというのもかなり疑問な話で、中世ヨーロッパの自治都市や近代ヨーロッパの民主制の方がよほど合意を重視しており、中世近世の日本の武家支配の社会は大多数の人間の合意など無視された上意下達の政治社会だった。
次に、多神教の問題について検討したい。
枝野氏は日本社会の最大の特徴は「多神教文明」にあるとし、日本では仏教もキリスト教も「多神教文明の中に同化しているのだ」と言い切る。
さらに、こうした多神教だからこそ、多様な存在を容認し、一つの価値を絶対視せず、異なる価値に寛容な多様性ある社会を伝統としてきたし、「排他的で多様性を認めない文明」ではなく、自分とは異なった価値を認め、多様性を認める社会だった、と主張する。
上記の主張には、極めて疑問を持たざるを得ない。
まず、「寛容」という言葉自体が、そもそも16-18世紀の西欧において、熾烈な宗教戦争の歴史の中で彫琢されてきた概念であり、もともと日本には寛容という概念そのものが存在しなかった。明治以後の翻訳語である。
実体としても、日本の歴史の中において、宗教弾圧の歴史は多く存在する。
後鳥羽上皇の時代における念仏弾圧や、戦国時代の一向一揆に対する織田信長による過酷な虐殺や、江戸期の薩摩・人吉における念仏弾圧もあるし、切支丹弾圧は言うまでもない。明治維新後には廃仏毀釈も起こった。
たしかに、神道と仏教が神仏習合という形で混淆をしていたのが日本の中世であるが、これを寛容と呼ぶのは極めて疑問である。
むしろ、神道と仏教が融合し、その頂点に天皇が存在する日本独特な形で成立した多数派の宗教が存在し(このことを山本七平は「日本教」と呼んだ)、この形に異議を唱えるものは容赦なく弾圧されたのが日本の歴史である。
「日本教」というのは、日本のマジョリティが自分たちを寛容で無宗教だと言いつつ、天皇制と多神教を当然の前提とし、そこから外れたものに対しては容赦なく牙を剥くあり方であり、そうした歴史を知っている人やマイノリティは、そうしたあり方に警戒を持つのは当然であろう。
日本教はあくまで日本教の範囲内での寛容に過ぎず、偽の寛容としか呼びようがないものである。
天皇制と多神教という日本のマジョリティが前提としているものからはみ出たものに対して非寛容であるにもかかわらず、あたかも自分たちは寛容で一神教は排他的だと表象するのは、真実の寛容とは呼び難い。
切支丹や日蓮宗不受不施派や一部地域における浄土真宗がいかに過酷な弾圧を受けたか、また神道の仕組みの中で穢れが多いとされた人々がいかに恒常的な抑圧と差別を受けたかを考えれば、近世の日本がとても寛容だったとは言えまい。
近代においても、国家総動員体制の中で日本教的なありかたに背くと考えられた社会主義者やキリスト者などがいかに弾圧や抑圧を受けたかを考えれば、寛容とは正反対の特質を指摘せざるを得ない。
日本教をもって寛容だと主張するのは、本当の意味で他者のバックグラウンドや多様性について真面目に考えたことがないのではないかと危惧される。
さらに言えば、日本の歴史と文明を形成してきたものとして、多神教である神道は一つの要素ではあるが、あくまでone of themに過ぎない。
神道は実存的な宗教としてはほとんど無内容なので、日本で長く実存的な救済や道徳を担ってきたのは仏教だった。
そして、仏教のうち最も広がった浄土真宗は一神教的なものであり、禅宗は無神論的なものである。日蓮宗は多神教的ではあるが、排他的なものの典型である。
近世以降、道徳や倫理を主に担った儒教は、無神論的ないし一神教的なものである。
近代以降においては、田中正造や中村哲をはじめ、日本人の精神史に最良の刻印をしてきた人々の多くはキリスト教であった。今の千円札の野口英世も、かつての五千円札の新渡戸稲造もキリスト教である。
日本の文明を実質的に担ってきたのは、むしろ神道以外の上記の諸要素と言える。しかも、そうした最良の精神史を形成してきた人々の多くは、むしろ多神教文明の中に同化せず、一神教的芯を貫いたと言えよう。
神道は、はっきり言って人間への洞察や道徳意識が未発達なものである。
それは延喜式の中の天津罪・国津罪の雑然とした内容を見れば一目瞭然である。
敗戦直後は、日本における道義の未発達の原因は多神教・神道にあると深刻な反省が行われたものであるが(矢内原忠雄の著作など)、枝野氏の歴史観にはこうした戦後の思想や学問の真剣な探究の成果は一顧だにされておらず、全く反映されていない。
戦時中の日本で多くの非道や無道が行われ、それを止める人が甚だ少なかった理由の一つは、道徳意識がろくに存在しない多神教・神道と、同調圧力と保守的気質に満ち満ちた農村の伝統的な精神的ありかたにあったということは、敗戦直後は随分批判されたことだが、そうしたことは一切枝野氏の念頭にはないようである。
先の大戦において戦犯として罪に問われ、巣鴨プリズン等において真剣な思索を行った死刑囚のほとんどは、浄土真宗かキリスト教によって(一部は日蓮宗などによって)、自らの生と死について立ち向かっていたことは、『世紀の遺書』などを読めば一目瞭然であり、神道はほとんど何の影響もない。
人生において真実を追求し、深い淵に立ったものは、必ず唯一の真実の神ないし絶対者を求めるものであり、日本においても実は一神教ないし一神教的なものこそが真実の支えであったことは上記の事例を見ても明白である。
中世や近世においてまっとうな庶民が信じていた「お天道様」というのも、漠然と一神教的なものであった。江戸期の武士が敬っていた「天」も漠然と一神教的なものであった。人間が本当に絶対者と我と汝の関係に入るには、一対一しかありえない。
こうしたことを考えれば、多神教を称揚し、しかも多神教は寛容だなどと安易に主張している人は、そもそもどこまで歴史を知っているのか、また人生において生死をあまり真摯に考えたことなく、考える必要があるほどの苦労がなかった浅い人物なのではないかと危惧を抱かざるを得ない。枝野氏自身が同書の中で、311の震災対応において「天命」を意識したと言っていたが、その天命における天とは多神教的なものなのか一神教的なものなのか、自問すればおのずとわかるはずである。
ついでに言えば、水稲稲作農業の文化文明だから多様性と助け合いの文明社会だ、といった主張は、おそらく両方読んだことがある人が少ないので気づかれない場合が多いのかもしれないが、安倍晋三氏の『美しい国へ』と全く軌を一にする。
安部氏の言葉で言えば「瑞穂の国の資本主義」ということになるが、枝野氏の歴史観はこれと基本的に違いはない。要するに、実際の政治政策に違いはあるとしても、典型的な日本教の枠内に、両者の歴史観や宗教観は含まれると言えよう。
しかし、多様性と支え合いということを言うのであれば、一神教のキリスト教が基盤のドイツの方がはるかに日本よりも難民を受けている。一神教のキリスト教が基盤のアメリカの方がはるかに社会的文化的な多様性があり、慈善も盛んである。一神教のキリスト教が基盤の北欧の方がはるかに助け合いや社会保障が浸透している。多神教の日本よりもそうであるとしか言いようがない。
ズルズルの多神教と似非寛容が日本をだめにしてきた原因だということをはっきり認識して、それをこそ批判し克服しないと、どうにもならないのではなかろうか。
枝野氏としては、多数派の取り込みのために付け焼刃で文明論や歴史論を論じてみたのかもしれないが、一神教的芯を持たない人間は、いかに時流や大衆に阿ろうと、最終的にはあまりうまくいかないのではなかろうか。
もし明治150年の歴史を保守するという自民の主張に対抗するために1500年の歴史を持ち出したかったというのであれば、1500年の歴史についてもう少し深い思索を行うべきであるし、近代の150年の歴史の中で、自民が持ち出すのとは異なる歴史や伝統を打ち出すべきではないか。
戦前からの民権を求める流れや労働運動やキリスト教社会主義や、戦後の革新の歴史の中の良質な部分をこそ、保守的な明治150年を相対化するもう一つの良質な日本の伝統や歴史として打ち出すべきで、無内容な1500年の歴史やら水稲稲作やら多神教を打ち出してみずからを保守と言ってもあまり意味はあるまい。
日本の政治が回復し活性化するためには、自民党以外の野党を強化する他はなく、その意味で枝野氏や立憲民主党にはがんばって欲しいと個人的には思うのだが、立憲民主党の一番の弱点は歴史観や思想性が弱い点であり、その弱点が露呈したのが『枝野ビジョン』の第一章のなのだと思う。真剣に今後その充実を図って欲しい。
本人があまり深く古典を読む時間がなくても、古典をよく知っている知識人が周辺にいて助言を求めるだけでだいぶ違うと思われる。優れた知識人で、枝野氏が尋ねれば、求めに応じる人は数多くいると思われる。
政治家が宗教や歴史や文明を論じる時は慎重であるべきで、もし著書に何か書くならば、しかるべき有識者やブレーンに必ずチェックしてもらった方が良い。でなければ、一切触れない方が良い。総理をめざすのであれば、なおのこと。