枝野幸男著『枝野ビジョン』の浅薄な宗教観に失望

今日、枝野幸男著『枝野ビジョン』を購入し、甚だ失望せざるを得なかった。

政策面ではさほど違和感はないのだけれど、「日本社会の本質は多神教」などと帯にも書き、多神教=寛容という浅薄な宗教観が披瀝されているのに驚き呆れ果てた。

宗教についてはむしろ何も書かない方が良かったのではないか。

 

そもそも「寛容」という言葉は16世紀17世紀の激烈な宗教戦争の時代を経て、西洋の中で彫琢されてきた概念である。

多神教が寛容などというのはいかに誤謬かは、中国における三武一宗の法難や、日本においても念仏弾圧や切支丹弾圧や廃仏毀釈を見れば一目瞭然である。

 

また、日本社会の骨格をつくってきたのが多神教というのも極めて浅薄な総括であり、浄土真宗一神教的であるし、儒教無神論的あるいは一神教的なものであった。

近代日本社会におけるキリスト教の影響は極めて強かった。

 

政治家について見ても、勝海舟原敬吉田茂大平正芳など、最も優れた政治家は皆クリスチャンだった。

多神教が日本の骨格をつくったなどというのは、極めて浅薄な総括としか言いようがない。

 

そもそも、折口信夫のような神道に格別の思い入れのある人物自身が、「神道の新しい方向」という著作の中で、日本の神道は八百万や多神教といったものではなく、根本精神において一神教ないし数神に帰するものだと明言している。

 

おそらく枝野氏はあまり深く考えず、悪気もなく日本社会は多神教などと言っていたのだろうけれど、宗教に深い見識がないのであれば沈黙している方がまだしも良かったろう。

およそ真面目に宗教について考えたことがない不見識が露呈したに過ぎないとしか言いようがない。

 

私は、枝野氏がこのような発言によって、主の祝福を失い、主の怒りを買わないかを心配し、痛ましく思うばかりである。

私自身もサムエルがサウルを見捨てたような気持にかなり傾いている。

書籍が飛ぶように売れて有頂天になっているのかもしれないが、私は氏のために悲しみ憂いる気持ちしか起きない。