八幡宇佐宮託宣集を読んでいてのメモ書き

八幡宇佐宮御託宣集を読んでいたら、八幡の三つの宮を法体・俗体・女体とし、それぞれ断悪修善・正直憲法大慈大悲の徳を現すと記してあった。中世の神仏習合の頃の、仏教の影響が濃い解釈なんだろうけれど、中世の日本人はそんな風に考えて、そういう意味付けでいたんだろうなぁとは思う。

また、筥崎宮には「戒定慧」の筥が埋められてある、と八幡宇佐宮御託宣集の巻二には、何か所か書いてあった。中世の頃にはそう信じられ、そう思われていたということなのだろう。

 

また、田布江、鷹居、郡瀬、太祢河、酒井、乙咩浜、馬木嶺、安心院、小山田、菱形池の移動のことは興味深かった。

薦八幡や大分八幡の話も興味深かった。

 

また、八幡は三千の眷属が、若宮は九万九千の眷属がおり、あわせて十万二千の眷属がいるというのも興味深かった。

 

法蓮の日想観の話や、仁聞菩薩の話なども興味深かった。

 

 

他も、いろいろ興味深い言葉をメモしてみた。

 

 

 

 

神勅に云く、八正道より権迹を垂る。故に八幡大菩薩と号くと云々。

 

我一所に住み坐して、法界衆生利益の願を発さむてへり。

 

大菩薩、馬城の峯に御垂迹して言く。

今より我が山には、修験人は有るべからず。尚我が山には、名聞得行を求む者、富貴官位を求む者、七宝如意を求む者、又は天下国王・大臣、君の百官を儲け申さむ念をば成就せしめ、盗賊火難を除かん。弁財高智を得んと祈祷せん時は、此れこの三石を用ひ身と成し、木水を意と成すてへり。

 

吾は慈悲を以て、本誓と為す。

 

吾が躰は、有もまた空もまた、只正道を以て躰と為すてへり。

 

得道より来(このかた)、法性を動かさず。八正道を示し、権迹を垂る。皆苦の衆生を解脱するを得、故に八幡大菩薩と号く。

 

八正道より迹を垂る。故に八幡と申すと。

 

吾は是れ、護国霊験威力大自在王菩薩なり。吾、社中に住せず。我、四維に風に当り、ふき到らん所の群類、併(しかしなが)ら済度せん。吾、万(よろづ)の方に灌ぐ雨の、流れ到らん処の有情を、悉く利益せんてへり。

 

明日の辰時を以て、沙門と成つて、三帰五戒を受くべし。今より以後は、殺生を禁断して、生を放つべし。但し国家の為に、巨害有らん徒出で来らん時は、此の限に有るべからず。疑念無かるべしてへり。

 

我体は有もまた、空もまた、正道を以て体と為すと。

 

汝、無上の道心を発すべし。吾も亦発すべきなり。又無上の道心を発さん人をば、守護すべきなりてへり。

 

 

一念も吾が名を唱へん者は、敢て空しき事無きなり。現世には思に随つて、無量の財宝を施し与ふべし。後世には善所に生れて、勝妙の楽を受くべきなりてへり。

 

我大いなる慈悲を以て室と為し、柔和忍辱を以て衣と為し、諸法の空を以て坐と為すべしてへり。

 

昔我天の下国土を鎮護(しづめまもり)始めし時に、戒定慧の筥を、彼の松原の所に埋め置くなり。すなわちその名を筥崎とは号くなり。

 

古吾は震旦国の霊神なり。今は日域鎮守の大神なり。吾は昔は第十六代帝皇なり。今は百王守護の誓神なり。先には独数万の軍兵を率し、償つて隼人を殺害して、大隅・薩摩を平げり。後には此等の生類を救はん為に、三帰五戒を持んと思ふてへり。

 

一。又筥崎宮の三所とは、一殿は八幡、二殿は聖母、三殿は竈門なり。これに就き、延喜の神託の如くんば、竈門は我が伯母なりと云々。今の次第の如くんば、竈門は御弟に相当り坐すか。法体は断悪修善の形、俗体は正直憲法の義、女体は大慈大悲の色なり。

 

我多く隼人を殺しつ。其の罪障山岳の如し。衆罪霜露の如し。沙門と成り、持戒して、罪障懺悔の為に、霜露に打たるるなりてへり。

 

ありきつつ きつつ見れども いさぎよき きよき心を われわすれめや