雑感 一神教と日本人について

雑感 一神教と日本人について


ときどき思うのだけれど、多くの日本人が無宗教で、宗教に無関心で、特に一神教にあまり縁がないのは、それだけ人生に苦労がないからなのだろうかと思う。


やはり、一神教、特に聖書の神を求めようとするのは、よほどのことがないとありえないのかもしれない。
よほど人生に呻吟しない限りは、なかなかめったに神を求めることもないのだろう。


聖書には、日干しレンガの奴隷として働かされたり、バビロン捕囚の憂き目にあった時に、真剣にユダヤの民が神を求めた姿が描かれるけれど、普通、そうでもない限り、なかなか神を求めることは人には無いのだと思う。

日本にキリスト教が広まらないのは、それだけ日本人が一般的にあまり苦労がなく、神を求めるほど苦しみや呻吟がないからなのかもしれない。

中国では急速にキリスト教徒が増えているそうで、推定で一億人を超すと言われているけれど、その背後にどれほどの人生の苦しみや嘆きや呻吟があるのかと思うと、なんとも胸が痛む。
韓国でも国民の三割がキリスト教徒というが、植民地時代や朝鮮戦争や軍部独裁の間、それだけ苦しみが大きかったということなのかもしれない。


戦国時代、日本でキリスト教が急速に普及したのも、当時はそれだけ苦しみや悲しみが多かったということなのかもしれない。


もちろん、キリスト教に限らず、どの宗教もなんらかの人生の苦しみやつらさに直面した時に求めるものかもしれない。
日本にはすでに神道や仏教があり、ある程度は人生の苦しみや不条理や神秘を求める心に応えているから、特にキリスト教がなくても良いと感じている人が多いのかもしれない。
もっとも、年末年始や何かの時に神社で適当に手を合わせれば満たされる程度の苦しみや願望であるとすれば、やはり呻吟というほどのことはない、ということなのかもしれない。


神道に比べれば、仏教はかなり深刻な人生の苦しみに応えるものであろうし、呻吟した人でないとなかなか仏教を求めることもないかもしれない。
しかし、戦国時代と同様、呻吟の度合いがぶっ飛んだ人は、仏教にすら飽き足らず、日本の古来の宗教ではない、聖書の神を求めるということになるのだろう。
通常はなかなかそこまではいかず、日本古来の伝統の中でなんとか折り合いや解決がつくのかもしれない。

そうこう考えると、日本古来の神社や仏教に飽き足らず、そこから逸脱して、聖書の神を求めるに至るというのは、なんらかの突破とも言うべきことだし、もうその時点で、何かしらこの日本においては平均値から逸脱しているのかもしれない。
だとすれば、そこまでに至るほどの人生の苦しみや呻吟を味わった人というのは、格別にヤハウェに愛されている人なのかもしれない。


宗教の逆説というのは、そういうことだろうか。
苦しんだ人こそが神と出遇い、選ばれた民となるというのは、それこそ聖書のテーマである。


日本が今のところ、神をそれほど求める人が多くないというのは、それだけ恵まれたことなので、実はそれ自体は本当は感謝すべきことだったのかもしれない。
しかし、これから先はどうなるのだろうか。
神を真剣に求めざるを得ない人が多くなるとすれば、それは国家や社会にとっては不幸な状況なのかもしれない。
しかし、それを通りこして神と出遇う人は、幸いな人と言うべきかもしれない。
社会にとっての幸不幸と、個々の人生にとっての幸不幸は、必ずしも同じではなく、別のものである。
しかし、私としては、どちらの幸福も望まざるを得ない。
それは矛盾したことかもしれない。
しかし、愛する日本がなるべく平和で豊かで幸福であることを願わずにはいられないし、しかしながら苦しみがいよいよ増す世の中となるのであれば、個々の人が自分自身で聖書を読んで救われるようになって欲しいと願わざるを得ない。