枝野幸男氏の『枝野ビジョン』を読んでいて、疑問に思われたことの一つは、保守とリベラルの言葉遊びに走っていることである。
おそらく、日本におけるマジョリティが保守を好むという想定のもと、自分こそ保守なのだというマッピングをして、彼らの支持をとりつけたいということなのだろうけれど、はたして意味はあるのだろうか。
そもそも、「理性によって理想の社会像を作り上げ、その実現のために邁進する」のが「革新」だとして、それをあざ笑うしたり顔の保守の方がはるかに蔓延し、そもそも理想のための努力もろくになされていない本邦で、革新に対抗する保守を強調する意味がどれだけあるのだろうか。
そのうえ、保守とリベラルという言葉は、特定の状況における文脈によって規定される言葉に過ぎないので、本来の意味を探求しても無意味なものである。
たとえばアメリカでは、共和党を保守と呼び、民主党をリベラルと呼ぶという用語法が定着しており、ただそれだけのことである。
日本では自民を保守と呼ぶだけのことで、自分こそ本当の保守で、今の自民は保守とは別物と言うことに、何か意味はあるのだろうか。
アメリカにおける保守とは何かというと、妊娠中絶に反対し、同性愛に反対し、銃規制に反対し、しばしば進化論にまで反対するものを保守と呼ぶわけで、日本の立憲民主党がそのようなものとどこまで共通点があるのか、そもそも支持者もそうしたものと何か共通の要素を持つものであって欲しいと考えているのだろうか。
ちなみに、アメリカの文脈で言えば、リベラルは少しも極端ではなく、もっと左のラディカルに対して相対的に穏和なもので、ラディカルと保守の中間地点ぐらいのものである。
また、フランス革命後の自由主義(リベラリズム)というのは、革命を終結させることを求めた思想であり、保守派(王党派)と急進派(革命のさらなる徹底)のどちらにも与しなかった、もともと穏健な立場のことである。
ゆえに、リベラルやリベラリズムというのは、それ自体がそもそも少しも革命的でも何でもないものであるというのに、リベラルや左派や革新という呼称を避けたがり、保守をわざわざ自称したがるのは、単に上記の区分に対して無知であるか、よほど自らを安全な立場に置きたいのか、どうも疑わざるを得なくなる。
マジョリティに対して自分たちは危険ではなく安心な存在だとアピールしたいのであれば、私有財産や市場経済を堅持しつつ社会保障を重視し、日米安保を重視すると主張した方がよほど効果的なのではなかろうか。
社会主義とは自らを区別したいのであれば、市場経済を肯定しつつ当初分配を重視する経済デモクラシーを掲げれば良いだけではないかと思う。
もう一つ、『枝野ビジョン』において読んでいて気になったのは、「立憲主義とは保守である」という主張である。
ドイツの歴史を見れば一目瞭然だが、自由主義者が憲法制定や立憲主義を要求し戦った歴史がある。
保守主義か自由主義かという呼称は文脈によるだけのことであり、あまり意味のある区分とも思われないが、歴史においては通常、自由主義者こそが立憲主義者である場合が多く、べつに保守主義と立憲主義に必然的なつながりがあるわけではない。
自由主義者を名乗り立憲主義を主張すればいいだけのことではなかろうか。
特に日本の場合、戦後の憲法に対して価値をあまり見出ださず、戦前の価値への回帰を求めるものを「保守」と呼んできたわけで、これに対して本当の保守は立憲主義だと主張しても、何の意味もなかろう。
保守ごっこはいいかげんにやめて、むしろ穏健左派リベラルの内容やイメージをしっかり伝えて、安全安心でしっかりしたものなのだと一般大衆の信頼を得る努力を行った方がいいのではなかろうか。
さらに、保守ごっこは言葉の遊びに過ぎないというだけでなく、保守陣営に対抗するための歴史的なリソースを活用できなくするというマイナスの側面もあると思われる。
自民と共産党と比較した時に、立憲民主に致命的に欠けているのが伝統や歴史とそれに基づく知恵や人材養成であると思われる。
しかし、立憲民主党にも歴史がないわけではない。
歴史を見た場合、社会党の中の構造改革論者だった江田三郎が菅直人と一緒に社民連を立ち上げ、菅直人が社民連・さきがけ・民主党と来て、その流れが立憲民主党につながっている系譜がある。
こうした歴史に着目すれば、戦後の社会党の歴史に、さらにはその背景にある戦前の労働運動やキリスト教社会主義などの歴史に連なることができる。
そもそも、立憲民主党の主要な支持基盤は、旧社会党の流れを汲む人的な流れが大きく、連合や自治労に限らず、個人的な支援者においても、旧社会党の流れを汲むお年寄りが最も多いのは否定できない事実なのではないか。
むしろ、今後そうした人々がさらに減少していった時に、はたして支える人々がいるのかが疑問である。
立憲民主党は上記の系譜を自覚的に継承し、大切にし、活用した方が良いのではないか。
保守ごっこは、むしろそうした歴史の継承を妨げる作用をもたらすだろう。
日本における左派リベラルの水脈をしっかり自覚的にとりあげて、左派リベラルの伝統を再構成するしかないのではなかろうか。
さらに言えば、理念的な保守ごっこをしたい人々は、いかに枝野さんがレトリックを駆使しようと、結局は立憲民主党を支持せずに自民支持に流れるだけにほとんど終わるのではなかろうか。
立憲を支えているのは、結局は多くの場合、旧社会党の流れを汲むリベラルの人々がほとんどである。
ありもしない本当の保守探しの言葉遊びをやっている間は、たいして良いものはそこから生まれてはこないのではなかろうか。