雑感 宗教について

これはものすごく偏った私の主観の判断なのだけれど、世界の数多ある宗教の中でも、初期仏教とユダヤ教は最もすぐれている気がする。


もちろん、他にも素晴らしい宗教は多々あり、キリスト教大乗仏教も素晴らしいとは思う。
よく知らないけれど、バハイ教なども、かなりいい線いくのかもしれない。


どれがどれとも言えず、それぞれに素晴らしい面があるのだろうとは思う。


ただ、どれだけ真理の響きを感じるか、深い歴史があるか、その真実を会得した人がいるか、その真理を体現した人がどういう人格の持ち主か、ということを知っている範囲で考えてみると、初期仏教とユダヤ教はすごいと感じる。


もっとも、世界の宗教のすべてをよく知った上でなければ、本来はどの宗教がすごいかと評価することは必ずしもできないことだろうし、私がよく知らないだけで、他にもいろいろあるかもしれない。


とはいえ、人が生きていく上においては、暫定的にでも、自分なりの評価をしないと、選択ができないというのも事実と思う。
他人にとってはまた違う評価も当然あろうと思うが、今のところの暫定的な自分の感想や判断は、この二つはすごいと思う。


一般的な通俗的な日本の宗教や歴史のまとめ方だと、あたかも初期仏教は大乗仏教に、ユダヤ教キリスト教に、それぞれ乗り越えられた、一段階前の発展段階のもののような扱いを受けることがあるが、本当にそうか?!ということを、私はいつも思わざるを得ない。
もちろん、イエス・キリスト自身や、法然上人などはとても素晴らしいとは思うが、一般的な聖職者や僧侶、および在家信徒のレベルからいえば、とてもじゃないが、そんなことは到底言えないのではないかと思う。


ユダヤ教や初期仏教が、小乗的だというのも大嘘で、一般的なキリスト教大乗仏教よりは、はるかに寛容で合理的で利他的であるように思う。

もし仮に、大乗仏教が初期仏教を、キリスト教ユダヤ教を、それぞれ乗り越えたと自称するためには、それぞれにとってのそれぞれを完全に極めた上でなければありえないと思う。
というより、そもそも乗り越え可能なのかどうかが甚だ疑問である。


ただ、おそらく、初期仏教はスリランカやタイにおいて、ユダヤ教イスラエルや各地のユダヤ教コミュニティにおいて、もともとそれらの共同体にビルトインされた状態があってこそ成り立つものだという気もする。
幼少期より選抜されて育てられたような人物でないと、とてもじゃないが、これらの宗教の聖典を完全に極めることは無理だと思う。


そうした選ばれた共同体以外に生まれたところの、しかも凡俗の凡夫にとっては、初期仏教やユダヤ教は、いかに憧れようと、高嶺の花のような面はある気がする。


しかしながら、多少はそれらの叡智の一端を味わい、かじることぐらいは、異邦の凡夫もできないこともないだろう。

それにしても、ちょっと、あの膨大なパーリ仏典、および膨大なタルムードを、しかも原語で学ぼうとすると、年を無駄にとりすぎたかなぁと思う。
来世では五、六歳ぐらいからそれらを志すように生れつけば、究めることもできようか。