内村鑑三 「人生の目的とこれに達する道」

内村鑑三 「人生の目的とこれに達する道」 (一月十日柏木今井館において )  
明治四十二年二月十日『聖書之研究』百六号「講演」



「ピリポ彼に言いけるは、「主よ我らに父を示し給へ、然らば足れり」。イエス彼に言いけるは、「ピリポよ、我れかく久しく汝らとともにありしに、未だ我を識らざるか、我を見し者は父を見しなり、何ぞ父を我らに示せと言うや」」(ヨハネ伝十四章八、九節)。
「汝ら聖書に永生ありと意(おも)いてこれを索(たず)ぬ、この聖書は我について証するものなり」(同五章三十九節)。
「人、もし我を遣わしし者の旨に従わば、この教の神より出づるか、また己によりて言うなるかを知るべし」(同七章十七節)。


人生の目的は神を知るにある。その他に無い。金を溜めるのではない。人に誉められるのではない。哲学と美術とを楽しむのではない。神を知るにある。
これが人生の唯一の目的である。この目的を達せずして人生は全く無意味である。真正の夢である。この目的を幾分なりと達せずしても成功せる生涯も失敗である。我らは歳の始めにあたって、ふたたびこのことを深く深く心に留むべきである。
人生唯一の目的は神を知るにある。しかして神を知る唯一の道はキリストを知るにある。神は哲学の研究によりてはわからない。天然の観察によりてもわからない。歴史も文学も神のまことに何たるかを教えない。キリストのみ、よく神を伝え給う。
キリストを知ることは神を知ることである。「我を見し者は神を見しなり」と。実にそうである。「神は絶対的実在物なり」と言うたりとて神はわからない。「神は万物の造り主なり」と言うたりとて神はわからない。「神は父なり」と言うたりとて未だよく神はわからない。  
神はキリストのごときものである。すなわち、実際的に言えばキリストは神なりと言うて、神は最も善くわかる。これは議論でもなければ哲学でもない。これは実験である。しこうして、神は実物であるから、キリストなる実現物によらなければわからない。
キリストを離れて神を知らんとするは不可能事である。他のことはキリストによらずしてわかるかもしらない。しかれども、神のみはキリストによらなければわからない。
キリストは神の唯一の示現者である。キリストはまことに人が神に至るの道である。ゆえに、彼はトマスに言い給うた。「我は途(みち)なり……人、もし我によらざれば父の所に往くことあたわず」と(ヨハネ伝十四章六節)。
人生唯一の目的は神を知るにある。しこうして、神を知る唯一の道はキリストを知るにある。しからば、いかにしてキリストを知らんかというに、その道は二つある。
その第一は、聖書を探るにある。「この聖書は我について証するものなり」と、キリストは言い給うた。聖書を探らずしてキリストを知ることはできない。
単に新約聖書に止まらない、聖書全体を探らなければならない。創世記より黙示録までを探らなければならない。新約のみではない、旧約もまたキリストについて証明するものである。実に旧約を探らずしてキリストはわからない。今の日本の信者がキリストを知ることの至って浅いのは、彼らが旧約を読むこと至って少ないからである。新約は旧約と相まってキリストについて証しするものである。
旧約は新約の根である、土台石である。旧約を知らずして新約はわからない。わかると思うのは迷想である。旧約をもって一たび固まれる良心を打ち砕かれなければ、新約の恩恵に有難味を感ずることはできない。旧約は人の宗教心を深くするものである。旧約の供する下ごしらえを経ざれば、人は真正にキリストの教にあずかることはできない。


キリストを知る第二の道は、その旨に従うことである。すなわち、その明白なる教えを実行することである。この事を為さずして、聖書の研究も吾人をキリストの善き弟子となすに足りない。
キリストは実行的にのみ知ることができる。吾人今日の弊害はキリストについて学ぶこと余りに多くして彼の旨に従うこと余りに少ないことである。もし従うとすれば、教会に出席するとか、わずかばかりの慈善金を出すとかいうことに止まって、この世を拒み十字架を担うて彼に従うという根本の教訓において彼に従わない。しかも、かくなして幾年間教会につらなり、聖書講演会に出席するもキリストはわからない。キリストをわからんとすれば、キリストと共にこの世の憎しみを受けて彼とともに十字架につかなければならない。
実にキリストに従わんとせずしてキリスト教を究むるは、害有て益は無い。神の真理はこれを行わなければ、吾人の心の中にあって激烈なる毒となる。霊魂を救うべき福音の霊薬は、行為をもってこれを消化せざれば、かえって霊魂を亡ぼす毒素と化す。これ実に恐るべき事実である。しこうして否むべからざる事実である。キリストに対しても激烈なる反対を唱ふる者は全くの不信者ではない。一たびは厚く彼を信じ、彼を心の中に迎え奉った者である。しかるに、彼の旨に従うあたわずして彼に反くや、福音はその人にとり耐え難き苦痛となり、ために彼をしてこれに反抗せしめ、ついにはこれを罵詈せしめ、嘲弄せしむ。実に慎むべきは、実行の固き決心をもって取りかからざるキリストの福音の探究である。天国に登り行く道はまた地獄に下り行く道である。慎みてもなお慎むべきは、十字架を担うの決心をもってせざる遊び半分のキリスト教の研究である。
しからば、我らは今年何を為さんか。以上の四つのことを為さんと欲する。これを重複すれば左の如し。


第一、人生唯一の目的たる神を知ること。
第二、神を知るためにキリストを知ること。
第三、キリストを知るために聖書を探ること、殊に旧約聖書を探ること。
第四、キリストの旨に従うこと、即ち十字架を担うて彼に従うこと。


余は諸君が今年履行すべき事項として、以上の四ケ条を諸君に献上する。