“The Lord bless thee, and keep thee:
The Lord make his face shine upon thee, and be gracious unto thee:
The Lord lift up his countenance upon thee, and give thee peace.”
(Numbers 6.24-26)
「願わくは主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、
あなたを恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、
あなたに平安を賜わるように」
(民数記 第六章 二十四〜二十六節)
“Tribulation produces perseverance;
And perseverance, character;
And character, hope.”
(Epistle to the Romans)
I’m impressed by the words.
I’m going to regard my tribulation as producing of perseverance, character and hope.
「賢者の言葉は祝福となり、賢者の言葉は冨となり、賢者の言葉は治癒となる。」
(タルムード、ケトゥボート編103a)
“The sayings of sages are a source of blessing, the sayings of sages are a source of wealth, and the sayings of sages are a source of healing.”(Talmud, Ketubot 103a)
「ほめ歌え、ヤハウェを、かれに忠実な者たち、
讃えよ、彼の聖なる名前を。
しばしはかれの怒りの中に、一生はかれの恩顧の中にあり、
夕(ゆうべ)には嘆きが留まり 朝(あした)には歓呼があるのだから。」
(詩篇 第三十章 第五、六節)
「異邦人といい、ユダヤ人という。事は千九百年の昔に属して、今日の我らにかかわりなしと言うなかれ。藭を有しその律法を持てる者は、いかなる時代にありても「ユダヤ人」である。藭を知らず、その律法持たざる者は、何時の世にありても「異邦人」である。然らば今のユダヤ人は誰ぞ、これいわゆる「信者」である。今の異邦人は誰ぞ、これいわゆる「不信者」(または未信者)である。使徒パウロにして現代に再生せんか、彼はまず「不信者」の昏冥(こんめい)と罪惡とを責めるであろう。しかしもしこれに對して信者が快哉を叫ぶならば、そはあまりに早計である。何となれば、彼はただちに鋒(ほこさき)を転じて、「信者」の虚僞と罪惡とを責めるであろう。そして信者たると不信者たるとの別なく ── 洗禮を受けたと受けぬとの別なく ── 教会員たると然らざるとの別なく ── およそいかなる人たりとも、善を行う者には永生與えられ、悪を行う者には滅亡来ると論断してはばからないであろう。今日の信者が、藭を知るということ、福音を持つて居るということ、繁會に属して居るということなどをたのみとして、天国の栄光期して待つべしとなし、不信者を蔑視して地獄の子となすがごときことあらば、そは迷いふかき驕慢である。人の環境は決してその人に栄光または滅亡を與うるものではない。人をとこしえに活かしまたは殺すものは、その人の心のあり場所、およびそれより当然生るる生活の状態である。我らは今日パウロの語を己れに当てはめて三思すべきである。」
(内村鑑三全集二十六巻 127頁)
「まず注意すべきは行いに由る審判が聖書的原理の一なることである。「そはわれらはかならずみなキリストの台前に出でて、善にもあれ悪にもあれ、おのおの身においてなししところのことにしたがい、その報いを受くべき者なればなり」(コリント後書五章一〇節)とあり、パウロ文書のほかにも「彼らおのおのその行いにしたがいて審判を受けたり」(ヨハネ黙示録二〇章十三節)などの語がある。またイエス自身の繁えとしても、ヨハネ傳には「善事をなしし者は生(いのち)を得るによみがえり、悪事をなしし者は審判を得るによみがえるべし」(五の二九)とあり、かつ最後の審判を描くや、かならず行いによる生と死とを説くのである。マタイ傳第七章二一節以下を見よ。また第二十五章十四節以下の比喩、および三一節以下の審判の光景を見よ、このことはきわめて明瞭ではないか。行いによる審判が聖書的原理の一なることは一毫の疑念をはさむ餘地もなく確実である。
次ぎに注意すべきは、ロマ書第二章前半が、ユダヤ人の濛をひらくをもつて處記の目的とせる一事ある。ユダヤ人といえば、藭を信じおるをもつてたのみとせる民である。しかしその信仰は眞の信仰でない。彼らは信仰ありと誤想しまたは誇稱して、罪惡の底なき沼におぼれてゐるのである。かかる人に向つてその罪をさとらしむるには、「行いによる審判」の原理を説くをもつて當然の順序とする。彼らもしまず信仰による義を説かれんか、ますますその抱ける誤れる信仰に滿足して、いやが上にも罪のふかみにおちゐるであろう。行いによる審判は、偽りの信仰にたのめる人に向つては、ことに強く説かれねばならぬのである。まことにそうである。
すなわち行いは信仰の試金石である。信仰の眞僞を知るには行いをもつてするほかはない。樹はその果をもつて知らるるのである。眞の信仰はかならず善き行いを生み、僞りの信仰はこれに反す。然り、人は信仰によつて救われる。しかし僞りの信仰によつては救われない。眞の信仰によらでは救われない。そして眞の信仰はかならず行いをともなう。この意味において、人は行いによつて救わると言い得る。審判は行いによつて加えられるのである。「それキリスト・イエスにありては、割禮を安くるも受けざるも益なく、ただ愛によりてはたらくところの信仰のみ益あり」とパウロはガラテヤ書において言うた(五章六節)。また言うた、「それキリスト・イエスにおいては、割禮を受くるも受けざるも益なく、ただ新たに作られし者のみ益あり」と(六章十五節)。愛によつてはたらくところの信仰 ── すなわち善行としてあらわるるところの信仰 ── これが眞の信仰である。この意味において、人は善行によらずしては救われないのである。すなわち不義につく生活を去りて眞理につく新生活に入り、その新たに作られし結果として、當然善果を結ぶこと ── このことがあつて人はついに救われるのである。信仰が善き行いを産むに至らぬうちはむなしき信仰である。偏りの信仰でなくば、死せるまたは眠れる信仰である。眞の信仰は眞の行いをともない、眞の行いは眞の信仰にともなう。畢竟これ同一事象の表と裏である。ゆえに人は信仰によりて救わる、また人は行いによりて救わる。ともにこれ真理である。何となれば、要するにこれ同一の原理の異なれる表現たるにすぎぬからである。
右の意味において、人はその行いをもつて審かるるのである。例を擧げてこれを説こう。人をゆるすは至美にしてまた至難なることである。さりながら、人をゆるし得ざる者が果して藭の赦免を贏(か)ち得るであろうか。人をゆるし得るに至らずしては、まだ眞に救いに浴した者とは言い得ない。厳密なる意味においては、人をゆるし得ざる者はキリスト信者ではない。「藭は人の行いにしたがいて、各人にその報いをなす」ところの藭であれば、人をゆるし得ざる者は、おそらくは榮光の中に攝取せられないであろう。しかし憂うるを要せず、我らに眞の信仰與えらるるときは、人をゆるすにおいて難くないのである。キリストに義とせられて、彼の靈が我に宿るに至れば、我は人をゆるし得るに至る。自己一人の努力抑制をもつては到底人をゆるし得ないものが、このキリストの靈、心に充つるときは、おのずからにして人をゆるし得るのである。問題は、彼の靈が我に宿るか如何にある。彼の靈が我に宿るときは、我の難しとすることを我にもあらで行い得るのである。これ汝がこれを行うにあらず、彼が我にありて行うのである。されば彼は繁えて言うた、「われは葡萄の樹、汝らはその枝なり。人もしわれにおり、われまた彼におらば、多くの實を結ぶべし。そはもし汝らわれをはなるるときは何事をもなし能わざればなり」と(ヨハネ傳二九章五節)。また同一のことを、使徒パウロはその實驗として言うた、「われはわれに力を與うるキリストによりて、すべてのことをなし得るなり」と。パウロのキリストはまた我らのキリストである。我ら真の信仰を抱き、眞に彼を我が心に迎えまつりて、彼にありてもろもろの善をなし得るに至らねばならぬ。我らひとえに彼を仰ぎ見て、彼の靈を眞正面よりゆたかに受くる者とならねばならぬ。藭はかならずこの願いを充たしたもうのである。」
(内村鑑三全集二十六巻 128~129頁)
リツキシマブという癌の特効薬が最近はとても成果をあげているらしい。今だったら、私の家族も治っていたのかもなぁ。医学の進歩はここ十年でもすごい。
「聖書は永久変らざる書である。他の書はすたれても聖書だけは廃らない。然り、他の書は悉く廃りて聖書だけが残るのである。聖書は我らの学ぶべき唯一の書である。」
(内村鑑三『ロマ書の研究』全集二十六巻199頁)
「愛とはいかなるものなるかを知るために、聖書の全体を学ぶ必要がある。健全なる知的理解力を以て聖書を充分に研究し精読せずしては、神の善にして、喜ぶべき、全き旨を知ることはできない。もしかくして充分に聖書を学ぶ時は、そこに示されたる藭のみ心の全く予想外なるに驚くのである。」
(内村鑑三)
「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。」
(イザヤ書 第四十九章 十五、十六節)