畔上賢造 『無教会主義』 全文

畔上賢造という内村鑑三の弟子にあたる人物が書いた、『無教会主義』という本を、全文タイピングしてみた。
簡潔にして要領を得ていて、無教会主義についての格好の解説書と思う。
仮名おくりや句読点を、若干読みやすく変更した。
多くの人に読んで欲しい名著と思う。
日本におけるキリスト教や、現代における救いについて、大きな示唆や手がかりになると思う。
ちなみに、著作権は消滅しているので、私も近代デジタルライブラリーから原本をとってタイピングさせてもらったし、私の今回タイピングしたデータは自由にコピペして、各自印刷していただきたい。
二万字ぐらいの文章なので、word等に貼り付けて、縦書きになおして印刷して読んだ方が読みやすいと思われる。




畔上賢造 『無教会主義』 (昭和九年(一九三四年))


第一節 「教派ではない」


 近頃、「無教会主義」といことが、日本のキリスト教界の一つの大きな問題となってきた。ことに教会側ではこれを大きな問題と考えている。それは教会員の中に、今の教会にあきたらないで、教会を去っていわゆる無教会者の群れに投ずる者が相当に多いからである。各派の年会などにおいて、無教会主義に対する対策を講ずるようなことがたびたびあったと聞く。かように無教会主義というものが、現在の新教教会に対して一つの脅威となっていることは事実である。

 
 かくの如く、いわゆる無教会主義の台頭は、最近の日本キリスト教界における顕著な事実であって、目下のところ全く日本特有の事柄である。しかし、これについて、人々の間に一つの根本的な思い違いがある。それは無教会主義なるものをキリスト教の一派とみることである。しかし、無教会主義は決してキリスト教の一派ではない。無教会主義の立場からみれば、キリスト教界における宗派の存在は最も歎かわしいことである。ゆえに、自分自身が一つの宗派ではないということが、無教会主義成立の根本に存している大きな精神である。無教会主義は教派ではなくて、一つの精神である。他の教派と対立して一つの新しい教派をつくったのではなくて、教派を超越し、あるいは教派の別を無視して、日本のすべてのクリスチャンに適用しうべき一つの精神である。われらはすでにあるいくつかの教派に加えて、さらに一つの教派をつくって、わずかばかりの信者を会員として他と並立してゆこうとするものではない。形式や所属は、われらの問題とするところではない。われらは日本のすべてのクリスチャンに、無教会的精神をもってもらいたいのである。われらの目指すところは、少なくともそこにある。それ以下をもってはわれらは満足しない。


 無教会主義という言葉が穏当ではないという人がある。われらもこの言葉を、われらの根本的精神を表現するための最も適当な言葉であるとは思わない。けれども、すでにかような言葉ができて、それが通用するようになった上は、この言葉を保続しても少しもさしつかえない。しかし、それが主義である以上に精神であるのだから、無教会的精神とか無教会的キリスト教とかいえば、いっそう適切であるかもしれない。しかし、問題は名ではなく、実である。




第二節 「起源」


 内村鑑三氏(内村氏は私の恩師であって、先生と呼ばねばならぬのであるが、この稿は自分を第三者に置いてのものゆえ、氏と呼ぶことにする)は、明治・大正・昭和を通じての、日本のキリスト教界の巨人といわれる人である。無教会主義という言葉は、氏が自己の主張をあらわすためにつくった言葉である。氏は青年の時、はやくすでに独立伝道を志した人であるが、氏のいわゆる独立は単なる自給伝道という意味ではない。氏は、外国人の事業としての日本教化をことごとく斥けて、日本人だけの力をもってする日本伝道がキリスト教を日本にひろめる唯一の道であると考えた。その頃の日本におけるキリスト教伝道といえば、その全部が西洋人の事業であって、西洋人を離れての伝道などということは、全く思いもよらぬことであった。しかるに氏が二十歳前後の青年にして、かかる意味における独立の必要を考え出したということは、その非凡の人格を雄弁に語るものである。


 氏は、かような意味の独立を、まず自ら試みようと決意した。荊棘をきりひらいて先人未到の道を押しすすむ者の労苦は、後進者のゆめにも思いえぬものがある。迫害、誤解、誹謗、貧窮等は、氏の味わわねばならなかった苦杯であった。けれども氏は、忍耐と祈祷をもって目的に向かって一意精進した。まず文書伝道の道をとることにして五、六の著作をしたが、ついに明治三十一年に『聖書之研究』という伝道雑誌を公刊した。この雑誌には少なくとも二つの特徴があった。第一は経済的の独立であって、内村氏自身がみずから経済上の全責任を帯びて、全く独自の仕事としてこれを始め、かつ続けたことである。真心から出た無条件的の寄進は斥けはしなかったが、自ら人に向かって経済的の援助を乞うようなことは少しもしなかった。特徴の第二は、その名の示す通り、聖書の研究がこの雑誌の目的であったことである。旧新約聖書全体を学的良心と、敬虔な信仰的態度をもって学ぶことが、この雑誌の眼目であった。かようにして『聖書之研究』は世に生れ、三十年続いたが、予定のごとく氏の死とともに消滅した。これが日本最初の、個人の独力をもってする聖書雑誌であった。


 内村氏はまた別に、氏の聖書講義の聴聞を願い出る者だけを集めて、一つの聖書研究会を創設した。これも三十年間つづき、時によって形式を異にししたがって会員の数に増減があったが、その最も多い時は九百名を数えた。その集会の導き方は、教会のそれとはまったく違う。多くの人が氏を慕って集まったのであって、自分の方から勧誘して来てもらうようなことは絶対にしなかった。また来会者をお客様扱いにするようなことも全くなかった。洗礼をほどこすことも全くなかった。また去る者は追わずという方針を厳重に守った。任意の会費を要求するほか、何一つ経済上の面倒を来会者にかけなかった。来会者は何らの束縛を受けることもなく、何らの不愉快を味わうこともなく、のびのびした気持ちを持って来会し、感謝に溢れて散会した。すべてにおいて教会とは全くちがったやり方であった。


かように多数の人が氏の直接の指導にあずかり、またその雑誌は最も少ない時でも二千に近き読者を有し、最も多い時は四千三百に達する有様であったから、またその数十種の著作もかなり読者を吸収したから、直接間接に氏の感化に浴した者は、教会の内外にわたって非常な数に達したというべきである。ゆえにこれらの人の間にいまでも、無教会的精神がみなぎっているのである。



第三節 「現状」


 内村氏は聖書を講じて人を導いただけで、伝道者を養成することはしなかった。氏は誰に向かっても同じ講義をしただけであって、若干の人に向かって特殊の教育をほどこすようなことはしなかった。しかるに氏の門下から数名の人が、この世の位地とそれに伴う収入とを棄てて、師に倣って独立伝道の道にのぼった。これらの人はすでに氏の生前から伝道を開始した。年代順でその名をあげれば、浅野猶三郎、畔上賢造、藤井武、黒崎幸吉、塚本虎二、江原万里、金沢常雄等である。これらの人はいずれも聖書研究会を起して人々を指導し、一人を除く他は聖書雑誌を創刊した。このうち藤井・江原の二人はすでに故人となったために、その雑誌も集会も解消したが、その他は依然として継続している。これらの人々の雑誌と集会はその師ほどには多くの人をひきつけてはいないけれども、とにかく各々の持ち場にあって働きを継続している。この人々の運動によって、無教会的キリスト教の性質がますます明らかとなり、今や動かし難き勢力となったのは事実である。


 これに促されて教会側から各種の雑誌が続出したが、いずれもあまり多くの読書を得ないようであり、中には経営困難の結果すでに廃刊したものもある。しかるにいわゆる無教会の諸雑誌は各々相当の読者をえて、ともかくも元気よくつづけてゆく。未だ廃刊したものは一つもない(主筆の死去した場合は別である)。誇るために言うのではない。また将来のことはわからない。ただ現在の事実を言うのである。


 無教会運動は新宗派をつくることではないから、全体を統合して一つのオルガニゼイション(組織)にはしない。いわば一人一党主義であって、各自の行動は絶対に自由である。だから同志の者の数などはわからない。ただ教会の内にも外にも、同じ精神の上に立っているものの多いことは確かである。ことに全国の処々において、教会以外に平信徒の団体ができて、それが相当の数にのぼっている。彼らは別に教師を持たないで、いわゆる無教会雑誌を指導者として、聖書研究の集まりを継続し、祈りをともにしている。まだまだ増える模様である。その同志の数において誇るに足るほど多くはないが、無教会主義は確かに一つの力ある流れとなっている。今やこれを無視して日本におけるキリスト教の伝道を語ることはできない。われらは決して人を勧誘して同志とはしない。ことに教会員に対しては、つつしんでその立場を尊重して、いつまでも教会員としてとどまることをねがっている。教会から退去したく思っている人の相談を受けたときには、われらは常に教会にとどまることを勧めている。しかし、われらには何の相談をもしないで、ついに耐えかねて教会を脱し、そしてわれらの群れに投ずる者がある。彼らは皆真面目な人たちである。そして異口同音に、教会生活の矛盾と偽善に耐え難しと言う。教会に属している者の中にも教会に対する不満から、無教会主義に共鳴している者がかなりある。これらのことは東京大阪等の大都会に限ったことではなく、全国を通じて一つの傾向となっていることである。



第四節 「教会に対する抗議」


 すでに無教会主義と名づけるからには、それが現代教会に対する反動であることは明白である。しからば、どんな点においてわれらは現代教会に対し不満を感じているか。


 まずカトリック教について言えば、そのすべてが異教的であるとわれらは断言する。その組織からみても、その制度からみても、その精神からみても、その行事からみても、カトリックは全然異教的であって、われらがここで問題とするに足りない。ゆえに日本のプロテスタント教会(いわゆる新教会)のみについて言おう。


 第一 プロテスタント諸教会は、教会を信者以上に貴んで、教会のために信者を犠牲にする精神が強い。これわれらがいうところの教会第一主義、もしくは教会主義である。自分の教会を盛んにするために、教会員を酷使しまたは極度の犠牲を払わしめることが多い。教会維持のために多額の寄付金を要求するようなことがたびたびある。会堂新築の資金を得るがために日夜労苦して奔命に疲れ、最後にはその貯金の全部をも献げしめられた労働者がある(これは実話である)。教会の運動に使われて学事を放棄するようになった青年などは、その数が随分多いと思う。あるいはまた自派以外の人の著書を読むことを禁じて、研究と思想の自由を奪うような教派さえある。一言にして言えば、これらはいずれも教会主義のあらわれであって、個人を集団の奴隷とするものである。これは明らかに、一匹の迷える羊を尋ねるためには、九十九匹を野に置いて馳せゆくというキリスト教の根本精神に背馳するものである。無教会主義は、決して集団を否定するものではない。兄弟姉妹の温かき交わりは、まことにあって欲しいものである。そして、事実として無教会信者の間にも、全国にわたっていくつかの集団がある。ただわれらの反対するものは教会第一主義―すなわち教会のために個人を犠牲にしてはばからぬ精神である。この教会第一主義が不幸にして日本の新教教会に弥漫している。この悪精神に向かっては、無教会主義は真正面から抗議する。


 第二 日本の新教教会の大部分は米国ミッションの仕事として始まったものである。すでに独立した教会もあるが、その成立・組織・精神および遣り口からみても、どう考えても彼らは米国教会の出店である。異臭紛々たるものがある。純粋の日本人から見ては甚だ面白くない。日本人の心と合わない。米国のキリスト教と言っても全部が悪いわけではない。良い教会もあり、良い神学校もあり、良い信者もあるであろう。けれども、大体からみて、キリスト教は米国においてかなり俗化したと言わねばならぬ。このヤンキーくさくなったキリスト教をそのまま日本へ持ってきたところが、国民性を全く異にした日本人の心に合うはずがない。米国の伝道会社はこの世の商事会社のような組織や方法をもって、日本の教化に当たろうとする。その宣教師の多くは、会社の事務員そのままである。そのすべての遣り口が商売的、打算的である。したがって、日本の教会は非常にアメリカ臭い。米国はその享楽主義をもって日本人の道徳的良心を汚し、その低級なキリスト教をもって日本人の霊魂を害う。例をあげれば沢山あるが、その一つとして俗悪な伝道法を挙げることができる。宣伝また宣伝、あたかもガス屋がガス風呂の宣伝を街頭でやるように、わめき立てるのや、あるいはまたしつこく人を追いまわすようなやり方は、いずれも心ある日本人の眉をひそめることである。日本人の宗教に関する考え方は、もう少し高尚である。無教会主義は、米国化したキリスト教の直輸入に対してあくまでプロテストしようとしたものである。


 第三 われらの見るところによれば、日本の教会はこの世と妥協し、あるいはこの世に降参する点が多い。この世と戦うのがキリスト教会の使命である。
「なんじら世をも世にある物をも愛すな。人もし世を愛せば、御父を愛する愛そのうちになし」(ヨハネ第一書 二・十五)
とは、キリスト教の根本的精神の一つである。この世と戦わぬところにクリスチャンはない。この世と戦わぬところにキリスト教会はない。この世と妥協し、この世に降参するキリスト教会は効力を失った塩である。「外に棄てられて人に踏まるるのみ」である(マタイ伝 五・十三)。しかるに、日本のキリスト教会が、キリスト教会をしてキリスト教会たらしむるこの第一の条件を欠いているのは、かえすがえすも遺憾である。一、二の例をあげておこう。教会はとかく、その会員の中で、この世の地位の高い者を有力者として重んずる傾向がある。もし信仰において立派な人ならばよいが、多くの場合においてはただこの世における地位のゆえにその人を重んずる―その人の信仰ははなはだ怪しげであっても、また未信者に対する場合にも、この世の有力者の前に頭を下げるようなことが多い。また会堂を新築する場合などには、映画会などを催し、または漫談家などを呼んできて、不信者の享楽心に媚びて、彼らから少しばかりの金を貰おうとする。かくのごときをこの世に降参する者と言わないで、なんと言おうか。彼らは「キリストとベリアルと何の調和があろうか。信者と不信者と何の関係かあらん」(コリント後書 六・十五)との、使徒パウロの言葉を何と解釈するであろうか。この世と戦って勝たねばならぬ教会が、戦わないのみか、かえってこの世に降参するというのは、天が堕ちて地となったほどの堕落ではないか。この存立の土台を失った教会に対して、無教会主義は徹底的の反省を促すものである。


 第四 無教会主義は形式を問題としないけれども、今の教会の組織の上に一つの大きな根本的な欠陥を認めるものである。それは多くの教会において(すべてではないかもしれぬが)、牧者があたかも教会員の雇人であるかのごときありさまであることである。表面はとにかく、事実はサラリーを出して牧師を雇っているようなことになっているので、とかく牧師を雇人扱いにする。したがって牧師の中にも、信者の機嫌をとるような人が相当に多い。雇人のようにして酷使しながら、翌日には神の代弁者のごとく説教せよというのは、盲人に向かって道案内を要求するようなものである。信者のご機嫌をとるのに忙しいような人に、どうして立派な説教ができよう。どうして信者の魂を導くようなことができよう。自分の教会の牧師について満足と感謝を感じているような教会員が、どれほどわが国にあろうか。たいていの教会員は、陰で牧師の悪口を言っているではないか。自分たちが少しも尊敬していない牧者から説教を聞いて日曜の礼拝を守らねばならぬとは、なんという不幸なことであろうか。いわゆる有力者という者が教会を支配していて、牧師はそれに屈服しているありさまであるので、比較的優秀な牧師はそれをいさぎよしとしないで教会を去る。そのために牧師の人物はますます低下するというありさまである。かようなありさまで、牧師も会員も深き不満を心に抱いているようでは、その教会にどうして力があろうか。人数は少なくとも、満足と感謝がみなぎっていれば、そこには犯し難き気品もあり、充ち溢れる力もある。数の多いことのみを求めても、不満が鬱積しているところには何一つ良いものがない。以上のようなわが国の教会の実状に対して、われらが遺憾の言葉を発するのは、まことに已むを得ないではないか。


 第五 大体から眺めると、今日の教会はキリスト教をひさぐ商店のように感ぜられる。牧師はその商店の番頭であって、来会者は顧客のように見える。牧師は会衆を一人でも多くひきつけようと、種々の方法を講ずる。来会者に向かって、盛んに愛嬌を振りまく。散会する際には、回収に向かって御礼の言葉を述べる。したがって会衆の方でも、お客様のような顔つきをして傲然としている。福音を教える方にも教えるという権威がないし、教わる方にも教わる者の謙遜がない。そのために、集会の空気に厳かなところが少しもない。その集会に出席してみて、なんとなく襟を正すような心持の起らないのは、それが神の教会でない証拠である。もともと神の福音を聴こうとして人の方からつつしんで教えを乞いに来るのが本当であるのに、こちらから頭を下げて人に来てもらうありさまである。全く主客顛倒である。これを例えてみれば、代議士を選挙する場合に、選挙民の方からお願いして代議士になってもらうのが本当であるのに、代議士の方から一生懸命お願いして選挙してもらうようなものである。この主客顛倒が政界腐敗の主なる原因であるならば、かの主客顛倒も教会腐敗の主なる原因ではあるまいか。


 無教会主義から教界に向かっての抗議は、以上をもって尽きてはいないが、その主なる点は、およそ右のようなものである。





第五節 「無教会主義についての誤解」


 無教会主義に対して種々の批難を加える者があるが、いずれも根本的な誤認の上に立っているのは遺憾である。その二、三を次に挙げよう。


 第一 無教会主義についての最も大いなる誤解に、それが集団を否認して各人の孤立を重んずるとみなす点である。かような誤解の上に立ってわれらを非難するは全くの的外れである。無教会という言葉は、今の教会を対象とする意味のものであって、決してクリスチャンの集団を否定する意味の言葉ではない。同じ主を信ずる者が兄弟姉妹として相結ぶことは、必然的に起こることであって、かつ喜ばしいこと、感謝すべきことである。信者の団体のことを原語のエクレシアと言うが、このエクレシアはキリスト教に当然伴うべきものであって、いやしくもクリスチャンであるならばこれを否認することはできない。現に無教会者の間にも、聖書の研究と信者の交わりとを目的とする集団があり、また兄弟姉妹の温かき関係もある。もっともそれらの間に、どの集会にも出席しない者もあるが、それはその人自身の都合によるのであって、決して集会そのものの存在を否認するのではない。教会信者の中にも、教会に出席しない者があるのと同じことである。無教会者は決して孤立ではない。天下に友は多い。われらは決して集団を否認する者ではなく、また孤立を貴ぶ者でもない。


 第二 われらに対する第二の誤解は、われらをもって独善主義者とみなすことである。すなわちわれらをもって己独りを善とし、己のみ真理を持てりと誇り、己のみ救われれば可なりとなし、いたずらに他を排撃して喜ぶ者であるとみなすこと―これが教会者の無教会者に対する見方である。


 無教会者と言っても数が多いのであるから、かような矯激な思想を抱く者が少しはあるかもしれぬ。二、三の過激な者を見て、それをもって全体とみなすのは、砂原の中で二、三の石を拾って、全体を石原とみなすようなものである。われらは決していたずらに他を排撃する者ではない。日本を愛しキリストを愛するがゆえに、見るに堪えぬことがある場合には反省を促すまでのことである。また自己のみを善とはしない。他に長所があれば、つつしんでそれに敬意を表する。己に欠点があればそれを改めようとする。またわれらは己のみ救われて満足する者ではない。日本人全体の、また人類全体の救われんことを祈り求める。常に伝道の必要を痛感し、そのためにできるだけのことはしている。何事も思うようにできないのは人の常であるが、少なくともわれらの志すところはここにある。われらの外の姿において、教会のそれと大分にちがうところがある。われらの同朋愛のあらわれにおいて、また伝道の仕方において、教会のそれとはかなりにちがうものがある。しかし、そのゆえをもってわれらを独善主義者とみなすは大いなる誤認である。


 第三 われらをもって教会の敵と見るのも大いなる誤解である。われらはむしろ教会の根本的改革を祈ってやまぬ者である。教会を退会してわれらの群れに投ずる者が多いという事実を捉えて、われらを教会破壊者と見る者がある。しかし、これらはわれらの罪ではなくて、その教会の罪である。もし教会がその会員に充分の霊的満足をあたえているならば、外部からいかなる反対が起こったとしても会員がその教会を去るはずがない。いな、外部からの反対があればあるほど、ますます熱心にその教会を擁護するはずである。しかるに外部からの声にひかれて教会を去るというのは、教会が充分の満足をあたえていないからであって、たまたまもって教会の弱力を語るものである。われらは教会の会員を自分の方に誘おうとしたことなど一度もない。われらはただ真理と信ずるところを説いているだけである。もしそれに共鳴して教会を去る者があったと言っても、われらはいかんともすることができない。もちろん去就に迷って相談する人があった場合には、われらはその人の教会にとどまることを極力勧誘する。他の団体に敬意を表して一指をもそれに触れないというのが、すべての伝道者の道徳でなくてはならぬ。かようなわけであるから、教会側からわれらの群れに投ずる者は、われらに何の相談もしないで来てしまった者である。来る者は拒まず去る者は追わずというのが、われらの伝道方針であるから、かくなってしまった人をまで斥けることはできない。したがって結果から見れば、無教会主義は教会の敵のごとく見えるかもしれないが、事実は決してそうでないのである。


 第四 無教会主義を無活動主義と誤解する人がある。ある有名な女流教育家が、働くことを罪悪視する潮流がキリスト教界の一部にあると言って、無教会的キリスト教を非難したという話である。おそらくこれはわれらの信仰第一主義を誤認したからのことであろう。われらは信仰のみによって義とされるという福音主義を高調するけれども、これは決して人間の活動というものを軽視する者ではなく、もちろん罪悪視する者ではない。われらは正常なる活動は信仰の結果生まれるものであるとするものであって、活動あるいは事業を信仰の上に置くことに反対するのである。活動そのものを生命とし、信仰をその器とするような行き方は、聖書の根本思想に反するものとしてわれらの排撃するところである。しかし、信仰から溢れ出ずる活動、また信仰の従者としての行為であるならば、われらはこれを無用視するような心は少しもなく、われらはむしろそれを貴ぶ者である。信仰は人を救うけれども、活動は人を救わない。しかるに世には活動をもって人を救う神であるように考える人がある。かように人生の深き事実に対する認識を誤っている人たちが、われらを捉えて無為の輩とみなすのである。事実は最上の雄弁であると言うが、実際無教会者は決して怠惰ではない。われらは人一倍勤勉であるとは言わないが、人並みぐらいには勤勉であるつもりである。われらの多くは働く時間の少ないことを歎じている。少なくとも人々に比べて怠惰であるとは思わない。これは事実の問題であるから、くらべてみれば誰にも分かることである。




第六節 「聖書的キリスト教の提唱」


 無教会主義は、聖書の信仰に対する正しき認識を出発点とする。ゆえに、まず聖書の研究を重んずる。今の教会はいわゆる説教ばかりを聴かせて、聖書そのものを教えない。ほんの申し訳に聖書研究をするぐらいのありさまである。しかるに、近頃は教会側でも聖書研究の必要を感じたと見え、聖書の研究を目的とする雑誌などがあらわれはじめた。これは明らかに無教会の真似をしたのである。聖書研究の必要は、わが国においては、内村鑑三氏によってはじめて提唱されたのである。明治三十一年に、氏が『聖書之研究』という雑誌を創刊しようと決意し、氏の先輩であって聖書翻訳者の一人である某氏にこれを語るや、その人はそんな雑誌は購読者もなく、また二、三号も書けば材料が尽きるであろうと語った。キリスト教会の長老さえかようなありさまであった。しかるに内村氏はそれに屈しないで、その雑誌の発刊を断行し、ついにはキリスト教の雑誌として最大の部数を発行するまでに至った。


 聖書はキリスト教の経典であるから、クリスチャンは何をおいてもまずこれを研究すべきが当然であるのに、それをしなかったというのは、当時のキリスト教会がいかに変態的であったかを示している。内村氏は今から見れば、当然のことをしたにすぎぬようであるが、その当時としては非常な卓見の持ち主であり、また一切をなげうって冒険的事業に突進したわけである。氏の理想は、聖書をもって日本の国民的経典となさんとするにあった。もし日本人が論語孟子を読むように聖書を読む日が到来するに至れば、日本の教化は期して待つべしというのが氏の考えであった。この主張が氏の無教会運動の根底をなしていることを人々は見落としてはならぬ。


 教会が聖書を説かないで、説教ばかりを聴かせるのは、近代欧米の人文的神学の影響のもとにある欧米教会の真似をしているのである。これは聖書よりも人間の智慧に重きを置くことであって、教会の現世的堕落の大原因である。同じような説教を日曜ごとに聴かせられるだけで、聖書はあまり教えられないのであるから、キリスト教の中心をはっきりつかんでいない名ばかりの信者がたくさんできる。キリスト教の中心的生命をしかと把握するためには、当然聖書においてそれをさぐらねばならぬ。しかるにこのことを怠って、どうして信者に力があろう、どうして教会に力があろう。歴史を見るに、聖書を学ぶことを怠って教会は衰微し、聖書を学ぶことによって新機運が起こる。内村氏のこの運動は聖書研究による新機運の創始である。氏は自ら聖書研究に没頭し、また聖書研究の必要を唱道し、日本のキリスト教界に新紀元を起したのである。


 大正時代に入った頃から聖書研究の熱心が氏の門下の中から盛んになった。新約聖書をその原語であるギリシャ語で読もうとする人が、かなり多くなった。旧約聖書に対する研究心も盛んになった。英米人で今ではあまり読まないような古い註解書が英米の古本屋の店頭からひき抜かれて、日本の若き学徒の書棚を賑わすようになった。この現象は今でも続いている。そしてこのことは、宗教書類を取り扱う英国の古本屋仲間などにおいて、一の驚異的事実であるそうである。


 無教会主義がどんな悪影響を日本のキリスト教界へあたえたとしても、それが聖書研究の熱心を促したことは事実である。聖書雑誌の発行においても聖書研究の熱心においても、事実上教会側は無教会に追随してきたではないか。これは明白な事実であって、いかに無教会主義を目の敵とする者でも否定することはできない。ただ真似事はとかくうまくゆかないものであるから、教会側が充分注意して立派にやってくださることをわれらはお願いする。何もわれらは本家争いをする者ではないが、無教会主義が聖書の研究を出発点としていることは、歴史的にも理論的に事実である。




第七節 「信仰第一主義の提唱」


 すでに聖書を基礎とするからには、無教会主義はあくまで聖書の根本的真理の上に立っている。聖書の根本的真理とは何であるか。それは救わるるためには信仰のみを必要とするということである。それをパウロだけのキリスト教であるように言う人があるが、われらはそれが聖書の一貫した救拯の大原理であることを認める。その理由はながくなるからここに述べることはできないが、われらのみならず、いわゆる福音主義キリスト教というものは、いずれもみなこの一義の上に立っているのである。


 「しかるに今や律法の外に神の義は顕われたり、これ律法と預言者とによりて証せられ、イエス・キリストを信ずるによりてすべて信ずる者に与えたまう神の義なり。これにはなんらの差別あるなし。」(ロマ書 三・二十一、二十二)

 「我らは思う、人の義とせらるるは、律法の行為によらず、信仰によるなり。」(ロマ書 三・二十八)

 「律法の行為によりては義とせらるる者、一人だになし。」(ガラテヤ書 二・十六)


 これらの聖語は、いずれも救拯に関する根本原則の提唱である。これは義とせらるるためには信仰のみが必要であることを説いたものであて、信仰のみによってすべての人が無差別的に義とせらるることを主張し、すべての律法的形式を不要としたものである。形式のあることを妨げはしないが、形式は生命でないから無くても少しも差し支えないというのである。形をもってする人間界の差別は、救いという観念からすれば全然無である。「いまはユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自主もなく、男も女も無し。」(ガラテヤ書 三・二十八)とは救いに関する聖書の大原則である。あらゆる形を問題としないのであるから、これをキリスト教の普遍主義と名づけることができる。すなわちあらゆる人間界の差別を無視して、救いの一道をもって貫くのである。


 この見方からすれば、クリスチャンとして洗礼の有無のごときは問題とならない。人は洗礼によりて義とせられず、信仰によりて義とせらるるからである。したがってわれらは人に洗礼を勧めたことがないとともに、人の洗礼を受けようとするのを妨げたこともない。内村氏のごときは、入信当時洗礼を受けたし、また洗礼を望む者に向かって、その人によりその場合によっては、洗礼を授けたこともある。しかし、氏は洗礼の必要を説かなかったから、氏の教えを受けた者の大部分は洗礼を受けなかった。私のごときは自ら洗礼を受けないし、また二十余年間伝道をしてきたが、一人にも洗礼をほどこしたことはない。これは洗礼を受けてはならぬというのではない。洗礼は受けても受けなくてもよいというのである。もしも洗礼を受けてはいけないなどと主張すれば、信仰の他にある形式を救いの条件とすることになって、聖書の根本原理にそむくこととなる。これを要するに無教会主義は、洗礼などの形式観念を全く自由問題として、人々の随意に任せるのである。洗礼問題についてはここに詳しく述べることはできぬけれども、それを救いの絶対的条件としないということは、救拯に関する聖書の根本原則に訴えて明かである。


 しかるに現今の教会は、教会の他に救いなしと高調する。教会に加入するには必ず洗礼を受けるのであるから、教会側のこの主張は、つまり洗礼を受けなければ救われないということである。これは明らかに聖書の根本原理にそむくのみならず、教会にのみ救いをみるというのは差別主義に堕したものである。教会の名ある牧師某がある修養会の講演に置いて、神は四壁の中にのみありと広言したとのことであるが、これは神を教会の中に閉じこめる差別主義である。神は在さざるところがない。神の真理は宇宙に遍満している。救いのおとずれは教会以外にもある。神は現今のような教会の壁の中よりもむしろ山の頂きに、森の蔭に、河のほとりに、あるいは人がその労苦にいそしむところに居給う。もし聖意にかなうような良い教会があれば、神はその中に居給うに違いない。救いもその中にあるであろう。しかし、これを教会に限るがごときは、救いを独占せんとする暴挙である。


 人は集団に加わっても加わらなくても、キリストを信ずることのみによりて救われる。形式の有無は、人の救いには直接の関係がない。人は教会によって救われるのでもなく、また無教会によって救われるのでもなく、ただ神によって救われるのである。神は救わんと欲する者を救いたまう。形式をもって神の救いを妨げようとするのは、恐るべき冒涜である。無教会主義は、この種の真理歪曲をキリスト教界から根絶せんがために戦う者である。決して救いが己のみにあるとは言わぬ。もしかようなことを言えば、教会主義同様の差別主義になってしまう。この差別主義を打破するのがわれらの目的であるのだから、自分の立っている土台の下に穴を掘るような馬鹿げたことをわれらがするはずはない。神の恩恵を形式をもって抑えないで、空をわたる風のように、それを自由自在に流れしめようとするのが、われらの戦いの眼目である。


 今や日本の国には、真面目な信者および求道者にして、教会に対して不満足を感じている人が多い。彼らのある者は不満のうちに教会生活をつづけ、ある者は教会に行くことを避ける。人は各々傾向を異にしているから、喜んで教会に出席している人はそれでよろしい。また不満足を感じながらも教会に出席している人はそれでよろしい。けれども教会に失望して、その結果キリスト教より離れている人に向かっては、教会以外にも救いのあることを示さねばならぬ。われらはかような人々のために、真理の所在を示すことをもってわれらの務めの一部としている。われらは自分の味方をつくろうとするのではない。救いの真理を広く天下に向かって示して、救わるべき者のために奉仕の役目に当たろうとする。これが無教会者の使命である。



第八節 「日本的キリスト教の提唱」


 真理は世界共通のものである。しかし、宗教的真理は科学的真理とはちがって、人々の生活に根を据えるものであるから、人により、また民族によりて、その色彩を異にするのは当然である。しかるに、日本のキリスト教会は、大体において欧米のキリスト教会そのままである。かような器械的翻訳のままでは、キリスト教が日本において力を持つことは不可能である。キリスト教がもっと日本のものとならなくては、キリスト教は永久に日本人に棄てられてとどまるであろう。これわれらが日本的キリスト教を唱道するゆえんである。これは決して世におもねるのではない。当然しかるべきことを言うに過ぎない。


 日本民族は模倣の民族であるというが、たとえそうであっても決して機械的模倣(ではなく、そ)のうちに充分の独創味を加えるのが、日本民族の特徴である。仏教も儒教も外来の教えであるが、今では日本がすっかりその本場となってしまった。これはそれらの教えを日本人の心において再認識し、日本人の心にかなう生ける教えとして信奉したからである。かく日本的に彩られたがゆえに、この二つの教えはすっかり日本の土壌に根を据えてしまって、今では日本固有の教えのような外観を呈している。世界に向かって誇るに足るようないくつかの立派な僧侶および学者を生み、仏教の寺院は全国にあまねく、儒教の倫理的精神は人間生活の根底をなすほどに至った。実に偉観なりと言うべきである。このことにおいて日本民族は、世界に向かっていかに誇っても差し支えない。ここに日本民族の明白な特徴がある。


 だから、私はキリスト教をも、「日本的」という形容詞なくしては考え得ない。日本的独立ということは、われらがキリスト教を信ずるについても、説くについても、第一条として高く掲げる最も大切なものである。ある人は、キリスト教の全人類性を説いて、われらのこの考え方を初代教会の一派たりしユダヤ派のごとき固陋なものとしてわらうであろう。「かくてギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、あるいは夷狄・スクテヤ人・奴隷・自主のわかちあることなし、それキリストは万物なり、万のもののうちにあり」(コロサイ書 三・十一)との語を引用して、人類的キリスト教のほか何ものもなしと言いて、私をいましめるであろう。しかし、これは一を知って、二を知らぬものである。キリスト教というものがただある一定の教理の、型にはまったままのものであるならば、それは数学や科学のように全く民族性を離脱したものであろう。しかし、キリスト教が活ける生命の供給者である上は、それがそれを信奉した各個人において互いに趣きを異にするように、それを受けた民族によって特異の姿を呈するのは極めて自然のことである。水は方円の器に従うということは、この場合にもたしかである。


 数学はどの国にでも同じである。アメリカやイギリスで、2と2を加えて4であるものが、日本に来て5となるはずはない。しかし、神の福音は、その本質こそ変わらぬけれども、たしかに民族によって特殊のものとなることは明らかである。各民族がキリスト教を採受しても、個性のない民族となるはずがない ―各個人もしかるように。いや、それどころではない。キリスト教を信受して各人の個性が一層あざやかに浮動するように、キリスト教を受けた各民族はその民族的個性(民族の特徴)を一層明確に外にあらわすに相違ない。この点は一個人も、一民族も同じである。「一国におけるも一人におけるもすべて同じ」(ヨブ記 三十五・二十九)とあるは本当である。されば、各信者がキリストを信ずる者として、おのおのその特殊の発達をしないならば、そして十把一絡げのクリスチャンであるならば、それは死んだクリスチャンであるように、各民族がキリストを信じてその特殊相を発揮しないならば、それはキリスト教民族としては死せるものである。


 欧米のキリスト教会はこの一義を見落として、自分たちの民族性で彩られたキリスト教をそのまま器械的に日本の国に押し入れた。すなわちアメリカ的、ドイツ的、もしくはフランス的キリスト教をそのまま日本に植えようとした。根本においてかような無理をしたゆえに、彼らの東洋伝道は失敗におわった。されば今に至ってようやく日本の霊的独立を認めんとするに至った(彼らが日本から手を引くことは、もはや時間の問題となった。彼らは打算的の民族であるゆえ、長年試みても効果ないと気付けば、手を引くのである)。


 見よ、欧米人のもって来たキリスト教会が、日本においてどんなに堕俗な歩み方をしたかを。打算的な、事業本位な、商事会社と少しも選ぶところのないような、そして明白になったコマーシャリズムキャピタリズムに降参したものとして、厚顔無恥の道を歩いたではないか。今でも歩いているではないか。読者よ、友よ、われらをもって、いたずらに教会攻撃をして快を取るものと思うなかれ。ただ我らは、白色人種がその堕俗な精神と方法とをもってキリスト教を日本に伝えたという事実そのものを指摘するだけである。そして、この根源に横たわる悪を剔抉して、日本のために新たなる歩みを提唱したいのである。


 日本のキリスト教会よ、その欧米的の殻を早く棄てよ。キリスト教国として最も破廉恥な歩みをつづけてきた彼らが、商事会社を経営すると少しもたがわぬ考えでやっていたキリスト教会を日本にもってきて、そのまま日本の純潔な国土に植えようとしたのである。かくて神聖なる霊的処女地は鼠賊の泥足に汚されたのである。もともとこれが日本のプロテスタントの起源であって見れば、それが今日のように行きづまったのは当然である。見よ、キリスト教会はなんという寂れ方であることよ!大都会にある一流の教会というても、多くは無理な会堂建築をして今や負債に苦しみ、相手かまわず寄付を仰いでいる。なんと恥ずべきか!あるいはブルジョアの御機嫌とって、かろうじて生きている。中以下の教会に至っては、集まる人々も寂々寥々、わずかに存在をつづけていると言うに過ぎない。たとえ集まる人は少なくとも、生気の溢れるものがあるべきはずである。しかるに何一つ力のあるを見ない。たまたま生気のあるらしきものがあれば、それは低劣野郎のやからである。みなもと濁りて末の清かろうはずがない。みなもとが清くも、とかく末は濁りやすいのであるから。日本のキリスト教会よ、その欧米的の殻を早く棄てよ。そして純日本的のものとして立ちあがれ。このほかに生命はない。


 われら欧米人のもって来た教会法・伝道法を棄てるにとどまらず、その神学の影響をもひとまず脱さねばならぬ。日本のキリスト教会が欧米神学界の動揺に引きずられて、彼らが猫の目のように変わると一緒に変わるような不見識ではだめである。見よ、数年前まではドイツの高等批評や、アメリカのモダニズムの足下に跪いていた者が、近頃はまたたちまち人間バルトの膝下に腰をかがめるありさまである。自分に堅く拠るところがないから、こんなに浅ましく流行思想にひきずられるのである。神学校の教授諸君よ、教会の牧師諸君よ、諸君の手には聖書はないのか、永遠に不動なる神の言はないのか。なぜ聖書を充分に学ばないのか。なぜ生ける神の言をないがしろにして、人間の思想を重んずるのか。「神の言は生命あり、能力あり、両刃の剣よりも利くして、精神と霊魂、間接と骨髄を透してこれを割ち、心の念と志望とを験すなり」(ヘブル書 四・十二)とあるを忘れて、無力な人間の思想を喜び求めるのか。そしてそれを頭の中に無理に押し込んで学者ぶって、神経衰弱になって苦しんでいるのか。


 日本人は日本人の心をもって、あらたに聖書を学ぶべきである。バルト神学などに心を奪われなくてよい。たとえバルト神学が大体において聖書的信仰を支持すとはいえ、聖書の上にさえ立っていれば人間の編んだ神学などはなくてもよい。あるいは、ない方がよい。もっともわれらは、聖書を学ぶについて、西洋人の研究したものを参考とすることを否むような頑冥者流ではないつもりである。辞句の解釈などにおいては、やはり彼らの研究をある程度まで重んじなくてはならぬ。しかも日本人には、日本人特殊の聖書の味わい方があるべきである。文字の解釈はとにかくとして、その精神をつかむ上において、それを体得し実験する上において、そしてそれを己の生命とする上において、日本人には日本人としての行き方があるべきである。要するにわれらは聖書を日本のものとしなくてはならぬ。これを外国の宗教の経典のように考えて、外国人の慣用する方法に盲従してこれに対してはならぬ。日本人は日本人として独立に立ちあがって、あらたに人類の書たる聖書に対し、これを日本民族への神よりの啓示として味読・味解せねばならぬ。


 また、われらは集会の組織および伝道法において、欧米の古外套をぬぎすてて、日本の国土にかなう道をあらたに選ばねばならぬ。あんな重苦しい外套は、日本の国土に合わない。あまつさえ、その甚だしく古物なるをや。古外套の汚い、不似合なのは一刻も早く棄てて、自分の体格にかなった衣を纏わねばならぬ。借り着は体に合わない。早く持ち主に返してしまえ。そして、自分に適した衣をととのえよ。


 日本人はかつて儒教や仏教をどんな風にして伝えたか、そのことを知るは大いなる助けである。とにかく儒教も仏教も、欧米人のやるような商売主義にはよらないで、日本国の津々浦々まで広まったのである。求道者や信者をお客様扱いになどはしないで、堂々権威を保持しつつ、立派に伝え得たのである。ひとりキリスト教について、欧米人の堕俗的方法によらねばならぬはずはない。ことにそれらを日本民族の精神的財産として伝えたゆえに、外国人から資金をもらって伝えようなどとは、日本においてかつて夢にも考えられなかったことであるを思え!日本民族よ、今もなお独立を確保せよ。決して欧米人の奴隷となるな。そして日本的キリスト教を樹立せよ!


 ただし、誤解を防ぐために一言しておきたいことがある。日本思想の再認識という声も近頃盛んになったが、日本思想と言うても全部が立派なものとは限らない。われらは無批判的に日本思想を是認して、それとキリスト教とを結びつけて鵺的な新宗教をつくろうとするのではない。かようなことは、キリスト教の本質からみて到底できないことである。またしてはならぬことである。けれども、日本既有の思想でキリスト教の精神にかなっているものがある。それをあくまでわれらは保続したい。キリスト教の立場からみれば、日本の過去の精神的財産のうちで、何がキリスト教の精神にかなっているか、何が反しているかは、おのずから分かることである。このうちから甲を採り乙を棄てて、換言すれば日本の精神的土壌をきよめて、その上にキリスト教を植えてその成長をはかること―これがわれらのいわゆる日本的キリスト教である。


 キリスト教はいかなる場合において、世論におもねり俗流に投ずることはできない。この世と戦わなくては、キリスト教はその力を失ってしまう。されば、われらが日本的キリスト教を唱道するのは、日本思想流行の現代に媚びるからのことではない。無教会主義はすでに数十年前から、日本的ということを力説してきたのである。われらはキリスト教が日本全体にゆきわたって、他のすべての宗教や思想に代わる日を期待する者であって、決して他の者と妥協しようとはしない。ただ、他の者の中にある貴い点、たとえば日本人が仏教や儒教を信じてあらわした高貴な精神を今日に活かして、それをわれらの信仰生活の強い要素としようとするのである。


 キリスト教は世界万民に通ずる普遍的原理を提唱する人類的宗教である。水や空気が世界共通であるように、キリスト教も世界共通である。一民族だけに限られるような民族的宗教ではない。けれども、事実問題として、それが各民族の活ける精神に吸収されてその民族の宗教となって、はじめて活力をあらわす者となる。ゆえに、日本においては、日本民族の宗教とならなくてはキリスト教は生ける屍として終る。日本においてキリスト教の活きる道もこれよりほかにはない。




第九節 「無教会主義の伝道法」


 最後に、無教会主義の伝道法について一言しよう。


 まず、現在の実状を述べれば、文書伝道においては、無教会主義はかなりの力を持っていると信ずる。その伝道者たちの著述は随分多く出で、みな相当に売れている。個人経営の雑誌は十数種にのぼっているが、その主なるものとしては、黒崎幸吉主幹の『永遠の生命』、金沢常雄の個人雑誌『信望愛』、塚本虎二の個人雑誌『聖書知識』、畔上賢造主筆の『日本聖書雑誌』、石原兵永主筆の『聖書之言』等がある。これらの雑誌に共通した特徴は、全くの個人経営であって、誰からも経済的支持を受けていないという点である。教会側の諸雑誌が、それぞれなんらかの財政支持を受けながらも経営困難であって、最近においてその主なる二、三が廃刊したと伝えられるのに、無教会の諸雑誌は、少なくとも現在では成り立っているのである。そして教会側ではその真似をして、しきりに聖書雑誌を発刊するありさまである。われらは誇るためにこのことを言うのではない。第三者から眺めても、これは明白な事実である。
 

 無教会の諸雑誌は、特に定価を安くして売ろうとはしないで、みな相当な値をもって売ろうとしている。また、むやみに寄贈するようなことはしない。伝道と称して無代で頒布するようなことはしない。その内容に対して敬意を持つ人が、代価を払って購うのを待っている。これは真理に対する権威を要求するのであって、豚に真珠を投げ与えないことである。


 われらはまた聖書研究のための集会を持っている。塚本、畔上、金沢等は東京において、また黒崎は大阪において、それぞれ日曜日においてその聖書講義を公開している。これらの集会は全く自由の研究会であって、誰人の来会するをも妨げない。けれども、手段方法を用いて人をその会にひきよせようとはしない。その存在を示すだけであって、ことさらに宣伝するようなことはしない。また、来会を中止した人に向かって、再び来会することをすすめるようなことはしない。来る者は拒まず去る者は追わず、という主義を堅くまもっている。また、教会が会員に向かって過重の負担を加える事実にかんがみて、これらの集会においては、来会するごとに少額の聴講料を払えばよいことにしている。ただ、その要求するところは、来会者が真面目な態度をもって聴講することである。


 これらの集会の中には、とかく今の教会の中にありがち不愉快なことや不満足なことはない。聖書を学ぶこころがあって、かつその講師に対して相当の敬意を持つ者だけが集まるのであるから、そして満足を感じない者はすぐ去ってしまうから、少なくともその日その時においては満足と感謝とをもって集会を終るのである。いやいやながら来る者は一人もなく、講壇に立つ者の悪口をかげで言うような者もない。もちろん、完全な集会とは言いえないけれども、来会者が喜んで集まり、喜んで散ずる集会であったことはたしかである。


 ある者は、われらの伝道法を非難して、儒者のごとく自らを高きにおき、真理を伝えるのに代価を取り、信者に対しては冷淡な態度をとって、彼らを慰めようとするだけの愛心を欠いているという人がある。もちろん、われらは完全な伝道をしているとは言わない。けれども、われらは儒者の精神を貴ぶけれども、儒者のように師弟の別をかたくとって自分を高いところにおこうとはしない。人々を弟子扱いにしたことなどは一度もないつもりである。文筆のことに多忙であるため充分手のとどかないことは認めるが、できるだけ人々の友達となってたすけ慰めようとねがっている。ただ、とかく牧師がやるように、人の御機嫌をとるようなことは決してしないまでである。


 またわれらの集会を非難して、兄弟姉妹のあたたかき関係が無いという人がある。われらの集会は聖書研究を第一義として立っているから、その他のことはことごとく従である。聖書が正しく学ばれ、各人の神に対する信仰が正しく守られれば、そのほかに強いて求めることはない。しかしながら、人々が集まるところである上は、その間に信者相互の関係が起こらないわけにはゆかない。強いて求めなくてともおのずから起こる。そして、われらはこの関係が常に信仰中心であることを求める。すなわち霊的の関係である。教会では会員同士の交際ということを非常に重んずるが、ただ倶楽部員のような関係たるにとどまって、主にあるまことの交わりでないと言いたいようなものが多い。こんなつまらぬ関係を相互に持っても、この世の社交的関係のようなもので何の益にもならない。教会に出席して、たくさんの人と交際しても、まごころから出づる霊的の関係を持っている人がどれほどあろうか。教会生活は賑やかなようなものであって、かえって寂しいものではあるまいか。


 以上のようなわれらの伝道法は、完全ではなくとも、少なくとも無害である。とかく教会にあるようないやなことがつきまとわない。未だ完全ではないが、少なくとも日本に適した伝道法であることは明らかである。われらは福音を愛し、また日本国に福音に充つる日を期待して日本民族のために最上の道を考えるほかに他念ない者である。これが無教会主義、無教会的キリスト教、日本的キリスト教の根本的希願である。


(完)