無教会主義キリスト教について

無教会主義キリスト教について語ることができるほどのものは自分には何もないのだけれど、自分自身の思考の整理のために若干いま思っていることを書き綴ってみたい。

無教会主義キリスト教(以下「無教会」と略す)とは、日本独特のキリスト教の形態および活動で、内村鑑三が明治に始めたものである。
無教会の集会というのが日本のあちこちに、小規模ながら今も細々と存在していて、教会ではないとしても集会は大切にするので、単なる個人主義ではない。
つまり、言葉の本来の意味での教会を指す「エクレシア」は大切にしているが、カトリックプロテスタントなどの教会組織は、他人が信じる分には尊重するしその中に尊いものがあることも認めるが、自分自身の救いには必ずしも必要ではない、ということである。

つまり、カトリックの七つの秘跡プロテスタントの二つの秘跡を、救いのためには必ずしも必要とはみなさず、聖書の学びを通して出会う生けるキリストによってのみ救われる、ということである。

私自身の場合、たまたま、住んでいるところの近くに無教会の集会があったので、そこに去年ぐらいから参加させてもらうようになった。
カトリックプロテスタントの教会ものぞいてみたことがあったけれど、無教会に行くようになったのは、ひとえにそこにいる人の境涯というか、宗教的境地の高さや人間的な魅力による。
私もある程度は、いろんな宗教団体や宗教者を見たことがあるのだけど、無教会の集会に来ている方々の謙虚さや優しさや、ちょっと難しい言葉を使えば「霊的内容」というのがいかに尊く素晴らしいものかは、ちょっと驚くべきものがある。
もちろん、他宗教にもそうした素晴らしい霊的内容を持つ人はいるのだけれど、そうした人々はその宗教のプロの聖職者や僧侶であるのに対し、無教会のすごさはごく普通のお年寄りが、非常に深い宗教的境涯に達していることである。

それがなぜなのかは、正確には私にはわからないが、たぶん、きっちりとしっかりと聖書を学ぶからではないかと思う。
カトリックのミサなどでは、いちおう説教もあるけれど、行事や儀式が主体であんまり信徒が聖書をしっかり学ぶというわけでもない。
プロテスタントも、教会によってはかなりしっかり学ぶようだし、そうした信徒も多いみたいだけど、そうしたところが必ずしも多数派というわけでもないようである。

その点、無教会は聖書講話が集会の中心だし、非常に質の高い歴代の無教会の著作家の本を、非常によく読んでどの方も勉強しているので、聖書理解の深さと、また聖書を理解しようとすることが中心となっているという点で、そうした状態になっているのではないかと思われる。

日本の近代の無教会を担ってきた人物としては、内村鑑三や三谷隆正や藤井武や矢内原忠雄や塚本虎二や高橋三郎といった名前が挙げられるだろうけれど、どの人物の著作も本当に深い魂の書とも言うべき素晴らしいものばかりである。

惜しむらくは、自分が三十代後半になるまで、それらにしっかりと近づく機縁がなかったことで、もっと早くめぐりあってればと思うが、せめても今から学べるだけでも良いのだろう。

何がそうした著作の素晴らしいところか、といえば、要は「魂の糧」になる、ということだと思う。
世の中に著作は多いが、本当に魂の糧になる本はあまり多くはないと思う。
その点、無教会関連の書籍や、聖書というのは、本当に魂の糧となる稀なる本であり、鉱脈だと思う。

どうして無教会の本は魂の糧となるのかと思うと、それは聖書を身をもって読んだ人々の深い体験から書かれたものであるということと、もっと言えば、聖書という古典との対話を通して得られた深い見地だからだと思う。
思うに、近代人や現代人というのは、ともすれば自己のことばかり執着しがちで、やたらと自分自身の問題関心や自分の内面にばかり目を向けがちだけれど、無教会主義というのはそういうものから自由で、聖書という本当の真理の本をしっかり読み、読みぬくことを主眼しているから尊いのではないかと思う。
おそらくは人の救いや生きる意味というのは、絶対者・永遠者といったものとの関係でのみ得られるもので、それらを抜きにいくら理屈をこねたり自分の内面やあるいは自分の経験や知覚体験を追及しても、それは得られないのではないかと思う。

そして、不思議なことに、聖書というのは長い間、日本ではあまり読まれてこなかった、というより諸般の事情で全然読めなかった書物で、18世紀後半になってやっと読めるようになったわけで、つい150年ぐらいのことである。
にもかかわらず、ヨーロッパやアメリカの良いところを摂取しながらも、それとはまた異なる形態のキリスト教のひとつの型が明治にははやばやと形成され、今まで営々と積み重ねられてきたというのは、実に驚くべきことと思う。

では、なぜ他の古典ではなく、聖書なのかというと、これはもう、各人の求道や遍歴が決定することだけれど、自分自身は聖書だと自分の人生の道のりを振り返って思えるようになった。
もちろん、他にも素晴らしい古典はたくさんあるし、パーリ仏典などは本当に素晴らしい真理の書だと思うけれど、聖書というのはやはり本当に「魂の糧」なのだと思う。

無教会主義というのは、この日本に欠けがちな、そしてまだ出会ってそれほど月日の経っていない「魂の糧」を、純粋に抽出してわかりやすく提供してそのための道筋を開いてきた、実に稀なるものだと思う。

これが自分の白道だなぁと、この頃はしみじみ思う。