浄土真宗でよく使う言葉に、「領解」(りょうげ)という言葉がある。
「あの人は領解が深い」
みたいな使い方をする。
よく仏法聴聞を重ねて、深く浄土真宗の御法義を理解体得している人にそんな感じで使う。
しいて現代語訳すれば、「体得した理解」と言えばいいのだろうか。
当然、キリスト教では使わない言葉なのだけれど、無教会の聖書集会に行っていると、
「この方は領解が深いなぁ〜」
と見ているだけでうならされるおじいさんおばあさんが多い。
これはもう、領解が深いとしかうまく形容できない。
なので、本当に便利な言葉だと思う。
たぶん、知識の理解だけではああはならないし、かといってきちんとした理解や知識が欠如していてもああはならないのだろう。
深い深い教養や人間としての魂の養いが積み重ねって、はじめてそううならされるおじいさんやおばあさんになれるのだと思う。
浄土真宗のお寺や無教会の集会でそういうお年寄りを数多く見ることができたのは、本当に自分にとって大きな宝だと思う。
あんなお年寄りたちが、自分たちの世代があれぐらいの年になった時にどれぐらいいるのかは甚だ心もとない気がする。
浄土真宗も、無教会も、高齢化が進んでおり、若い人はあんまりいないようである。
しかし、領解の深さというのは一朝一夕では身につかないもので、若い時から御育てにあずからないと、なかなかはああはならないだろう。
私もあと半世紀ぐらい経った時に、領解の深いお年寄りになれるといいのだけれど。