ヨハネ黙示録三章二十節について

聖書の中にこんな一節がある。


「見よ、
わたしは戸の外に立って、
たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、
彼もまたわたしと食を共にするであろう。 」
ヨハネの黙示録 第三章 二十節)


心の扉をキリストが叩き続けている、という意味であろう。


『雪のたから』という児童文学では、この言葉が一つのテーマになっている。


考えさせられる一節である。


去年ヨハネ黙示録は読んだはずなのに、その『雪のたから』を読むまで、この一節は全然記憶になかった。
読み流してしまっていたのだろう。


だが、丹念に味わうと、本当に深い一文だと思う。


つまり、キリストは、その人が気付く気付かないに関係なく、常にあらゆる人の心の扉を叩き続けている。
しかし、それに気づかなかったり、あるいは気付かぬふりをして心の扉を閉めてしまっている人も多い。
と同時に、心の扉をあけて、キリストを迎え入れる人もいる。


そういうことなのだと思う。


『雪のたから』の中では、部屋の雨戸をあけると光がさして明るくなる、誰も闇を追い出してから窓を開けようとする人はいない、それと同じ、ということが言われる。
これと全く同じようなたとえが浄土真宗にもあり、曇鸞大師が、「たとえば千歳(せんざい)の闇室に光もししばらく至れば、すなわち明朗なるがごとし」と言っている。


すべてに満ち溢れる光といのちに心の扉を開くこと。
つまり、憎しみやねたみではなく、愛に心をひらき、キリストを心に迎え入れることが、千年も続いてきた自分の心の闇が晴れるということである。


ということを、このヨハネ黙示録の一節は言っている。


浄土真宗において五劫思惟や兆載永劫というのも、要はそういうことだろう。


キリストが私の心の扉を叩き続けてくださっていることと、心の扉をあけてキリストを心に迎え入れること。
これを忘れないこと。


それは非常にシンプルだが、ある意味、人生の最も大切なことなのだと、この頃思うようになった。