雑感 讃美について

おそらくは、どの宗教にもそれぞれに讃美や感謝という要素はあるとは思うのだけれど、キリスト教において私がいつも良いなぁと思うところは、讃美歌や讃美が存在しているところである。

日本の神社やお寺にも、御礼参りや感謝のお参りということももちろん存在しており、多くのそうしている人もいるとは知っているが、圧倒的に大半は、感謝や御礼や讃美よりも、まずはそれぞれの御願いごとや祈願のウェイトが高いと思う。

これはもちろん、キリスト教もそうであるかもしれない。
キリスト教においても、各人、それぞれ実に勝手な願いごとを私をはじめとしてしょっちゅう神様にしている人はいるとは思うが、そうだとしても、讃美歌をうたったり讃美や感謝の祈りをささげる比重が、キリスト教の場合は、それなりに多くきちんとビルトインされているように思う。
聖書の内容からして、詩篇には讃美の詩が実に多く、苦難や悲痛のどん底からの救いを求める詩も多く存在するが、1篇から150篇を通して読むと、徐々に讃美の詩に祈りが収斂されていっていると感じる。

もっとも、日本においても、浄土真宗は例外的に加持祈祷を禁じ、御恩報謝を全面に掲げているので、論理的には讃嘆ということがもっとあって良いかとは思うが、多くの寺院の法事や法要の場合、和讃の朗誦は形式的になりがちではないかと思う。
中には御恩報謝と讃嘆随喜に生きる妙好人もいるだろうが、その数は、浄土真宗門徒数の中のいったいどれだけの割合なのかは非常に疑問である。

讃美というのは、おそらくは、少なくともある程度は、心に幸せや慰めや喜びや癒しを感じないことには、心から発することはできないのではないかと思う。
讃美が多く発せられるということは、心にそれらをより多く感じているということではなかと思う。
また、讃美をなす中で、より心に深い味わいや幸せや喜びを感じることができるのではないかと思う。

昨今の日本を見渡すと、不平不満や呪いや誹謗の言葉が満ちている。
ネットを見ると、実にそうした言葉が多い。
もちろん、そうではなく、日々の楽しみや喜びをつづった言葉も多いが、感謝や讃美の言葉は、なんと粗悪な言葉に比べて少ないものかと思う。
もっとも、消え去って行く多くのくだらない言葉に比べて、数は少なくてもいつまでも光かがやくのは讃美や感謝や真実の言葉である。
数は関係ないのかもしれない。
しかし、それにしても、なるべく多く、讃美の言葉が満ちている社会というのは、幸せな社会であることは間違いないと思うし、人は可能な限りは、それを望むべきではないか。
不平不満の言葉が満ちるより、感謝や喜びや讃美の声が満ちる世の中の方が、どれほど明るくて良いものだろうか。

もし、歴史的に見た場合、キリスト教にはともすれば不慣れで縁遠くなりがちだった日本が、キリスト教から最もみずからの幸福のために学ぶべきことがあるとすれば、それは感謝や讃美の心や方法ということではないだろうか。

もちろん、そのためには、何かしら社会的な制度に不備や不条理があれば、それを除去していく努力も大切だろう。
抑圧や搾取があれば、喜べ感謝しろと言ってもそれは難しいものであろうし、それらを取り除いてこそそうした声は挙がるだろう。
ただし、そうであるとはしても、現代日本人よりはるかに貧しい状態で抑圧のもとにあった帝政ローマの頃のパウロら初期教会の人々は、なお高らかに讃美の歌をうたうことができたということは、いかに社会に問題がある時であっても、なお讃美の声をあげることのできる証左であると思う。

不平や呪詛の声ばかりをあげるよりも、まずはテゼの歌などを歌うところから、個々人の幸せも世界全体の幸せもありうるのではなかろうか。