先日、真新しいきれいな状態の岩波文庫版の『銀河鉄道の夜』をブックオフで200円ぐらいで手に入れることができた。
それで、昨日、夜の三時半までかかって、読み終わった。
素晴らしかった。
天才としか言いようがない。
幽冥の境をこれほど生き生きと描く作品は、めったにない。
今回読んでいて気づいたのは、ところどころ原稿に欠けがあり、「…(この間原稿五枚ナシ)…」といった部分がしばしばあることである。
なんとも惜しまれる。
どのような内容が欠けた部分にはあったのだろうか。
そういえば、小さい頃、藤城清治の版画絵本の銀河鉄道の夜は小さい頃繰り返し読んでいた。
また、猫のキャラで描かれたアニメ映画版も小さい時に見て感動した。
また、若い時に何度か何かの版で文章の作品としても読んだような気がする。
しかし、岩波文庫版をきちんと読んだのは初めてだったし、いずれにしろとても久しぶりに読んだか、あるいはきちんと原作を丁寧に読んだのは初めてだったような気がした。
読みながら、この作品のテーマである「人間にとっての本当の幸い」とは何なのか、あらためて考えさせられた。
このテーマを直球で投げてくるとは、宮沢賢治はやっぱりすごいと思った。
なんとこのテーマから外れた、どうでも良い文学が世には溢れていることだろうか。
簡単な答えは見つからない問いだし、おそらく人は一生をかけてこの問いを問い続けるのが人生なのかもしれないが、己を犠牲にしても誰かを愛することが本当の幸いということなのだろうかとも思う。
神を愛し、隣人を愛すること、それが幸福な人生ということなのかもしれない。
カムパネルラを通じて、サソリを通じて、宮沢賢治はそのことを描きたかったのかもしれない。
しかし、今回読んでいて、『銀河鉄道の夜』には讃美歌が繰り返し流れたり「ハレルヤ」と登場人物たちが言ったり、本当の本当のひとつの神ということが語られたり、非常にキリスト教的な色彩が強いということにあらためて気づかされた。
その雰囲気や用語も内容も、極めてキリスト教に接近している。
おそらく、キリスト教だとか仏教だとか、そうした既存の宗教の枠を超えた、本当の本当の一つの神、本当の真実に宮沢賢治は近づこうとし、そして近づいていたのだと思う。
ちなみに『銀河鉄道の夜』の中で繰り返し登場する「讃美歌306番」は、讃美歌「主よ、みもとに近づかん」のことだそうである。
この讃美歌は、タイタニック号が沈没する時に歌われた。
私の知人のお葬式にもしばしば流れたことがあった。
本当に良い歌だとしみじみ思う。
小さい頃に読んだ時は、どの曲のことだかあんまりよくわかっていなかった気がする。
この歌が人生の中でしばしば流れてきて思い出深くなってきていたので、ああこの歌だったのかと、あらためてしみじみ『銀河鉄道の夜』が深く味わわれた。